竹内街道

 竹内街道は司馬さんの「街道をゆく」を読んで,一度歩いてみたいと思っていました。お盆休みで,暑さはそうでもなさそうだったので,竹内街道ウォークをしてきました。


竹内街道失敗編  丹比道       堺-松原ー古市

2005年8月13日


より大きな地図で 竹内街道 を表示

 

 結果は標題の通りです。では,その顛末をば。

【むなさわぎ】
 首尾よく6:00に家を出られたので,涼しいうちにある程度のウォーキングができると思いました。JRの駅にきたところ,あれ?快速電車が・・・!というこ とで,乗り遅れました。今日は休日ダイヤか!嫌な感じ。次の普通電車に乗って,持ち物を調べていると,メガネ忘れた,ケイタイ灰皿忘れた,あれっ!ケイタ イに充電ができてない。
 気を取り直して,うつらうつらしました。まず南海高野線に乗って堺東まで行きますが,あれ?難波だったか?天王寺だった か?えーと,難波は近鉄か?ということで,この時点でもう間違ってます。天王寺につく頃,やっぱりおかしいことに気がついて,地下鉄で引き返そうとしまし たが,それより前に,ということで,中百舌鳥まで行くことにしました。あとで考えたら,阪和線で三国ヶ丘の方が竹内街道に近いということが分かって,がっ くり。どうも先が思いやられます。
【案の定1・・・】
 地下鉄中百舌鳥でおりて,地上へ。7:40でした。だいた い,地下鉄の階段をぐるぐるっと上がると方向感覚が狂うのです。以前からこの傾向は分かっているので,地上に出て,まずタバコ一服。気を落ちつかせて,方 向を確認します。エー,あっちに南海線,ということは,こっちでOKと,自信をもって方向を定めました。
 中百舌鳥から北東方向に1km弱もどって,東に折れます。そうすると金岡神社のはずです。地図では東行の道はけっこう大きな道になってます。
 快調に飛ばしていきます。目印のGSを通り越して・・・,何か大きな建物が見えてきました。「しんかなCity」と大きく書かれています。ああ行きすぎ。その先は中百舌鳥の1つ前の駅です。700mくらいオーバーランでした。引き返して東に入る道を探すと,工事中で,地図とは大きく違いました。宅地造成と,どうも,竹内街道の整備も同時にやっているようです。これでは分からん!

【街道らしくなってきた】
 また気を取り直して,ずんずん行くと,街道らしくなってきました。地図にある池も見えてきた(が,ほとんど土砂に埋まっていました)し,学校もある,ということで,間違いないようです。(8:05)

 道沿いには板塀の町屋があって,なかなか古街道風情満点です。写真をとったはずだったのですが・・セーブされていませんでした(ケイタイなので)。まもなく金岡神社が見えてきました(8:15)。町内の人が盆踊りの 準備をしています。櫓の準備ができており,周囲の飾りつけをやっていました。街道はレンガ(透水カラーブロック)で舗装がしてあって,気持ちがよい道で す。路地に入るところには,土地の太鼓の会会員の提灯がかざってあり,寄付受付の掲示板もしつらえてあって,昔ながらの河内の町内会のようです。見上げる と,電柱にも提灯がぶらさがっていました。

【消えゆく古街道】
 まもなく国道に突き当たり,その向うは大泉公園です(8:25)。地図をみるとかなり広い。ここで小休止しました。ぽつぽつと散歩している人がいます。
 竹内街道は公園の南縁を真東に進みます。細い道で,車が多く歩きにくいので,公園の中の駐車場を歩きました。国道が南を併走しており,その脇道のようになっており,歩くにはあまり気持ちのよい道と
はいえません。まもなく,池が現われましたが,水面は一面の菱!水もよくないようで,近くによるとドブの匂いがしました。道の両側は住宅と町工場・事務所が混在していて,悠々と街道をゆくという気分にはなれません。いかにも場末の街道といった感じです。
 八下の住宅街(写真右)に入ると少しは落ち着いた街道になってきます(8:50)。

【岡の思い出】
 西除 川を渡ると松原に入ります。このあたりから見覚えのある風景が出てきます。おじおば老夫婦がこのあたり岡に住んでいて,7,8年前に一度訪れたことがあり ます。いかにも街道らしい風情だったので,すこしブラブラしました。街の中心らしいところの十字路に図書館があって,石標と案内板がたっていました。この 十字路は竹内街道と中高野街道の交差するところのようです。

  「右  ひらの 大坂」    :北方向(中高野街道)
  「左  さかい」        :西方向(竹内街道)

はあー,これが竹内街道か!
 そ れから数年たった冬,おじがなくなったときも,この十字路から西すぐにある公民館でお葬式がありました。時間を見つけて周辺を散策しました。街道から路地 に入ると,古いお寺や,お屋敷,長屋などが混在していて,決して高級ではないが落ちついたたたずまいで,寒風の中,ゆったりと散策した記憶があります。

 こ れよりずっと昔,ボクが小学校のころ,岡には一度きたことがあったのです。この夫婦は,戦後いなかから出てきて工場で働いていました。やっと家が持てるよ うになり,岡に家を建てた(借りた?)というので,ある年の夏,遊びにいったのでした。2階からスイカを食べながら家に前の道路をみていた記憶がありま す。その場所は今回の竹内街道沿いでなくて,新興の住宅地だったようです。家の前の道を少しいくとすぐ行き止まりになり,たんぼやため池があったようで す。大きなコンクリートの土管が置いてあって,排水工事,造成工事の途中だったようです。戦後の高度成長期で,田んぼをつぶして,どんどん住宅を造成して いく時期だったのです。
 そこは,昔から住んでいる人々(主に農家)と新興住宅に越してきた人々の混在した街であったようです。それから数 十年,家々はすっかりなじんでいるように見えます。人々の心もすっかりなじんでいるようで,おばは,今,ひとりで住んでいるのですが,「(こどもと)一緒 に住んだら?」となんべんも誘われたようですが,「ひとりでも,ここがエエ」と,いうことをきかないそうです。幸いまだ元気なようですし,気心の知れた隣 人がいる共同体がよいのでしょう。
 その当時新築だった家々は老朽化し,ほとんど残っていないようです。所々に場違いな?新築住宅もあり, また大きな高層アパートも建っていました。かの公民館には9:00ころに付き,公園でタバコ休憩としました。図書館前の石標の十字路には,数人がバスを 待っていました。こちらはそろそろおなかがすいてきたので,喫茶店でもないかと探しながら歩いていますが,お盆休みの朝9時ではねえ・・・

【丹比の道】
 竹内街道は近世以降の呼び名で,元々は,丹比(たじひ)の道といわれたそうです。松原市のホームページには「松原歴史ウォーク」と「まつばらの民話をたずねて」というサイトがあって
,丹比の道を知るうえで,大変参考になります。
 日本書紀に,「推古21年(613年)冬11月,掖上の池,畝傍の池,和珥(わに)の池を作り,また難波(なにわ)より京(みやこ)に至る大道(おおじ)を 置く」とあります。同じく書紀に,「仁徳14年(4世紀中頃) にこの歳京(としみやこ)の中に大道を作りて南の門より直(ただ)に指して丹比(たじひ)の邑(むら)に至りき」とあります。推古21年には,仁徳14年 の大道を,「国道1号」に指定したものと思われます。すなわち,堺から,松原, 羽曳野,太子の市町を経過し,竹内峠で大阪,奈良府県境を超え,当麻にでるのが丹比の道で,さらに,そのまま横大路と呼ばれる東西道を東へ進み,大和高 田,橿原,桜井の市町を経て明日香へ官道が達していたものとされています。
 学者によっては,羽曳野市郡戸の大座間池付近から,松原に入っ て立部 ・岡・新堂・高見の里・新町・天美に至り,大和川の手前の阿麻美許曽神社まで西北に延びる斜向道路を本来の丹比道であると考える人もいるようで,「まつば らの民話をたずねて」の著者,加藤孜子さんも,推古21年の大道とは,難波から南へ向かい丹比道と大津道に接続する墨の江街道説を紹介されています。

 この丹比道は,後述の「葛城と古代国家」(門脇禎二著・講談社学術文庫)によると,4世紀初めまでは 大和の葛城国の王がおさえていたらしく,この道を通って,河内経由で瀬戸内海に出,垂水を経て丹後や但馬と友好関係を結んでいたらしいです。この時はヤマ ト王国は,北方の木津川経由で摂津か丹波へ出るルートや,紀ノ川経由で大阪湾に出て瀬戸内海へ抜けるルートを確保していたようです。葛城王国は,最短のメ インルートをおさえていたようで,それだけ力も強かったようです。4世紀半には,ヤマト王国は河内に進出,この丹比道をも勢力下におさめたと思われます。
 7世紀後半ごろまでに,大和でも南北等間隔の 直線古道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)がつくられていて,河内を通る大津道・丹比道も,大動脈であったことは間違いないようです。この時代,文物は瀬戸内海 を東進し,難波に上陸,大和で消化され,さらに北へ東へと伝播していきました。遠く,朝鮮,中国と大和を結んで活躍した道。あらゆる文明,文化を運び続け てきたのです。
 この道は文明の道だったばかりでなく,戦略・戦争の道でもあったようです。672年の壬申の乱で,大友皇子軍が大和へ攻め 上ったという記述もあり,大軍を動かせる道として整備されていたことが分かります。大きく下って,幕末の頃,土地の人は,徳川の残党達が倒幕の衆に追いか けられている姿にあちらこちらで出くわしたそうです。岸和田のお殿様も同様で,少数の供といっしょに,松原のこの街道筋にある徳川親藩の家を頼って逃げて こられたそうです。逆に,大阪の陣では徳川方が豊臣方を追い,丹南天満宮(丹南三丁目)本殿は大坂夏の陣の戦火で焼失したそうです。

【丹比野の開拓】
 「まつばらの民話をたずねて」(加藤孜子さん)からは,古代のこの地の様子がうかがえます。

ずうっとずうっと昔,まだ人間も神様も動物も仲良う暮らしていた頃のお話やそうですが,この松原から美原にかけて広がる広大な野原を『たひ』(いたどり)が一面を生い茂り,そのたひの葉がしげる地面には蝮がたくさん生息している肥田の土地だったそうです。
人々 はこの地を丹治比(たじひ)の国,丹比の国,蝮(たじひ)の国とよび,肥田が育てる穀物で人間も神様も動物も平穏な生活が営まれていたそうです。こうした 素晴らしい土地に大雀の命(おおさざぎのみこと:仁徳天皇)の第三皇子(後の反正天皇)がお生まれになったと伝えられております。


 なるほど,「丹比」とは,いたどりであり,マムシですか?マムシはちょっといやですが,どうも一望の野原で,川筋などには湿地があって,マムシがいたの でしょう。その川筋をうまく開墾して水田などを作っていったのでしょう。まだまだ一面の水田まではいってなかったようです。

4世紀後半から5世紀,崇神~応神~仁徳天皇のこヤマト王国河内平野の開拓事業を行っていたようです。この頃は,上町の東から生駒山麓までの北河内には大きな河内湖(右写真,写真の本から用)があって,これを活用して水田にしようとしていました。それは3つの大きな事業からなり,1つは狭山池の修営と,そこから流れ出る東除川,西除川を利用した南河内の開拓,2つめは淀川が茨田(今の枚方市南方)から溢れるのを防ぐ,茨田堤の造営,3つめは河内湖の水を大阪湾に逃がして,干拓しようとするものです。(「葛城と古代国家」門脇 禎二 著 講談社学術文庫)



 松原市のHP「松原歴史ウォーク」を見ると,松原市役所の下から上田町遺跡が発掘され,大きな発見があったと書かれています。引用しながらまとめます。
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 そ れによると,弥生時代後期の地層から,水田と自然河川が現れたそうです。この水田はいまから1800年ほど前に作られたようで,43枚の水田が確認され, 1枚あたりの水田の規模は,約16平方メートルと,現在のものと比べてかなり狭いようです。どうも川筋など自然地形を利用して,千枚田のような田んぼを 作っていたようです。また,この水田面に稲株の跡と思われる直径3~10cmの円形の小穴が見つかりました。稲株の痕跡は全国では4例目,大阪では初めて のものだそうです。さらに,南から北西に向かう自然河川跡も確認されました。この河川の中から水量を調節する井堰や多数の木製品が見つかり,水田経営に利 用されたと思われます。
 近鉄河内松原駅前の遺跡では,7世紀後半ごろに巨大な人工運河が掘られていたことが判明しました(丹比大溝)。耕土直下から,幅約10m,深さ約3mの断面「V」字状を呈する溝が延長100mにわたって検出されました(大溝1)。大 溝1は,南西に流れる大溝2と分かれます。この合流点には,分流する大溝2の水流の調整を図るためと思われる杭が打ち込まれていました。溝内より出土した 遺物は,円筒埴輪,土師器,須恵器,木製品などでした。これらの出土遺物より,大溝は7世紀後半ごろにはすでに掘られており,8世紀代には一度溝ざらえが 行われ,新たに杭が打ち込まれたことがわかりました。大溝1は復元すると,松原・羽曳野市境の東除川から取水し,途中,古代の官道である大津道と2度ほど交差し,上田2丁目の寺池を通り,段丘面を西に横断して堺市境の西除川へ至る約4kmにも達する長大なものでした。
 7 世紀後半にこのような大規模で広範囲な人工運河がつくられたことにより,本来,自然灌漑の困難な段丘面に水源が確保され,水田開発が容易となったのでし た。同時に規模の壮大さを考えると,灌漑用水路だけではなく,当初は舟運にも利用されていたのではないかと推測されています。
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 なるほど,ヤマト政権は5世紀にはすごい実力をもっていたものです。このようにして,松原が穀倉地帯へと発展していったのですね。この上田町遺跡は,丹比の道が通る岡の北約2kmのところですが,岡のあたりも6~7世紀にはこのようにして,田んぼが作られたのですね。稲作がもたらされて数世紀,谷あいの千枚田から始まった(と思っている)日本の稲作は,民を養い,ムラ,クニを発生させ,巨大な古墳も作り,官道も作り,都 には大寺院を作り,さらに大潅漑工事で水田を開発していこうとするパワーの源:コメの力というものは・・・いまさらながら,唖然とする思いです。
 そ れを考えると,この田んぼをどんどんつぶしていって成立した戦後の高度成長は,はたしてそれに見合う物や生活をを生み出したかどうか?生み出したとも言え るし,そうでないともいえる。コメを基盤にして成立する社会から石油を基盤にする社会に変化した以上は後戻りはできないのだけれど,石油があるうちに,水 と太陽と自然循環で成立する,社会のオペレーティングシステムを考えないと持たない時代になってきた,とそんなことを考える丹比の道ウォークでした。

【羽曳野】
 立部を過ぎると羽曳野市にはいります。羽曳野とはどういう意味なんでしょうか?すがすがしい名前で羽曳野という地名があるとおもったのですが,羽曳野市の中心は古市で,調べてもよく分かりません。
 阪和道をくぐって国道に出たところで,雨が降ってきました。幸い喫茶店があったので,モーニング休憩します。(9:25)店 は一杯でした。お盆休みで,近所の人が朝食にモーニングを食べに来ているようでした。ホットドッグモーニングで¥470。メロン,バナナ,スイカ,オレン ジ,そして野菜サラダ,たまごがついていてボリュームたっぷりでした。ゆっくり休んで,メールで妻に報告「今,松原を出たとこ」。9:50再スタートで す。
 地図では,喫茶店の西,道路の向こう側に南に入る道があるはずでしたが,良くわかりませんでした。国道沿いに新しい店ができていて, 古い街道の入り口は目立ちません。国道を少し東進したところで南へ行く街道があって,そこに入って,新ヶ池のところで竹内街道と合流しました。付近は古く からの農村のようです。いかにも田舎のバス停という感じのバス停横に神社があって,その向かいから,昔ながらの田舎道にはいります。いかにも古街道といっ た道です。

 池のほとりに,丹比図書館・市民センターがありま した。ここに竹内街道の大きな案内板が作られています。ここでは,丹比の道と書いてきていますが,実は,丹比(たじひ)ということばを知ったのはこの地点 が初めてだったのです。その時は「丹比」の意味も良くわかりませんでした。この地区の名前かなあ?と思っていました。
 案内板によると,「サヌ カイトの道」とも主張していました。丹比の道ができる前までは,もちろん無名ですが,サヌカイトの道だったのだと。二上山あたりではサヌカイトがとれ,鋭 利な刃物となるので,弥生・縄文以前は,二上山あたりから石器をもった人間がこの道を通って狩にきたのだと。なるほど,新しいウリ文句だ,と感心してしま いました。
 まもなく伊勢橋です。名前からして,中世以降,お伊勢参りをする道と
して使われたようです。そのまま行くと病院に突き当たり,道は湾曲しています。道標が,道から奥まったところにある民家の前に建っていました。民家の横は道らしいものがあって,もともとはそこが街道で,今歩いている道は新道のようです。結構雨が降ってきましたので急ぎます。
 10:23,ケイタイのメールがなったので,チェックしたら妻からでした。「どこへ行くの?」交野も雨が降っているようです。「竹内峠,こちらも雨」と返事。

【野中寺】
 細長い池の端を過ぎるとまもなく野中です(10:43)。雨が降っているので,野中寺にいって雨宿りをすることにしました。のなかでら,だと思っていたら,やちゅうじ,なんですね。
 このお寺は,飛鳥時代,聖徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ,「中の太子」と呼ばれています。境内に,塔跡や金堂跡などの飛鳥時代の伽藍の一部が残っています。ちょうどお盆のお墓参りでにぎわっていました。お染・久松の墓があるらしいのですが,じゃまになりそうなので遠慮しておきました。


 境内には古墳からでたという石棺がかざってありました。帰りしなに,山門を撮ろうと雨の中を待っていたら,3人づれおばさんが門の前で横にならんでじっと待っています。「おいおい,写真とれへんやないの」,とはいえませんでした。


【案の定2・・・】
 あれ?靴がおかしい。ソールにヒビが入ったようです。雨も降っており,常夜燈の前で少し思案しましたが,古市の駅はもうすぐなので,とりあえずそこまで行くことにしました。
 古街道はすぐに広い道に突き当たり,その道を南下します。すぐに仁賢天皇陵が見えてきました。このあたりは古墳が多いところで,地図でみると,野中寺の 北に は仲哀天皇陵,古市の北には巨大な応神天皇陵,狭山古墳,宮山古墳,墓山古墳が点々としています。軽里というところで東に折れますが,ここには峯
が塚古墳があります。

 が,しかし!靴がばらばらになりそうです。水がしみてきました。10:55,屋根のある休憩所があったので,休憩します。靴底をみてびっくり。これでは峠越えはできそうにありません。雨も降るし,11:00リタイア決定。古市までは1kmくらいなので,駅までは持つでしょう。

 歩道橋を越えると整備された街道がありました。せっかくですからここを通ります。街道入口のところは普通の新築民家がたっており,写真がとりにくいのですが,少し行くと,古い町屋がならぶようになりました。石畳の気持ちの良い道なんですが・・・


と,思っていると,完全に靴底が抜けてしまいました。目の前には日本武尊の白鳥陵があるのですが,抜けた底を持って,歩いています。直接足に石があたるので,冷たいと同時に痛いです。ガクッとスピードが落ちました。

 やっとこさで,駅前の靴屋さんに飛び込みました。(11:35)これにて,竹内街道ウォーク終了。これでは歩けないので,お店で靴を買う羽目になりました。お店の女の子に言わせると,「ああ,この靴長いこと履いてないでしょう?この手の靴は,履いてないとこうなんですよ」ということで,もっとちゃんとしたウォーキングシューズを買え,ということのようでした。


【古墳の道】
 古代の死者信仰というのを理解するために,今,「境界の発生」赤坂憲雄著(講談社学術文庫)というのを読んでいます。

 古代にあっては,まず,あっち/こっちの区別から始めたようです。常陸風土記によると,麻多智というひとが部族をひきいて,葦に覆われた谷の原野を切り拓き,田をおこして定住をはかった。そこに,蛇の姿をした夜叉(の神)が人間たちの侵入を防ごうと,大挙して出現する。
・・・人間は土地にひそむ荒ぶる神を殺害し,あるいは谷間から山懐深くへと駆逐していく。そして,1つの「標のつえ」をたてて宣言する。こっちは,人の田で,あっちは神の山である。さらに,荒ぶる神を征服し,追いやっただけでなく,彼らの霊を鎮めるために,祭祀を行うようになる。
「標のつえ」を建てたそこは,地形的には,峠であったり,山裾の広場であったり,川であったり橋であったりする。広場には市が立ち,唄や踊りで魂を送り,場合 により戦場にもなる。その周辺には墓をたて,葬送儀礼を専門にする職能部民(遊部,當麻氏,土師氏,柿本氏)を配置する。

 ヤマトに住む 人々も同じで,ヤマトはこっち,河内はあっち,という観念から始まったようです。ヤマトから見ると,境界は二上山であり,竹内峠です。そうか!古市周辺の 古墳と近つ飛鳥付近の古墳,墓はこういう配置なのか。そういえば,古市の東の石川にかかる橋は臥龍橋,古市も市が立ったから古市なのでしょう。古市の先に は土師の里という駅もあります。検証はともかく,「境界の発生」の記述そのままの土地でありました。これはおもしろい!
古市駅前の喫茶店でコーヒーをすすりながらにやにやしていました。

 今回は変なアクシデントで失敗だったけれど,丹比野の開拓史から稲作のパワーを発見しておもしろい「丹比の道」ウォークになりました。次回は古市周辺から竹内街道ウォークを続けたいと思います。

 

竹内街道古市編               羽曳野

2005年9月18日

 

 失敗ウォークから早1か月,少しは涼しくなったので,残りの竹内街道を歩いてきました。
 い つもの通勤時間より早く,7時前に家を出ました。とりあえず前回の終点地・古市にいきます。今度は,靴も,ケイタイも万全です。

 

【古市にて】

  古市着8:30で,時間に 余裕もあることだし,朝ご飯を満足に食べなかったので,古市駅前の喫茶店でモーニングをと思っていたのですが,休みでした。おまけに,そのお店の前のタバ コ自動販売機でいつものPhilip Morrisを買ったのですが,出てきたのは1ミリのキングサイズでした。これはまずいんです。

  古市 駅前の踏切を渡って東にいくと,古い(大正風?)商工会館のある辻にでます。江戸時代,古市は竹内街道(大和街道)と東高野街道(京街道)が交差し,石川 水運の剣先船(浅瀬用の運送船)や石川の野通し船(渡し船)の船着場などがあり,水陸交通の要地として非常に大切な地でありました。特に河内木綿の集散地 であり,たくさんの荷物を運ぶには水運が重要で,そのためか,船の形をしただんじりがあるようです(竹内街道記念館で調査研究の展示があり,船形だんじり模型の展示もありました)。明治以降も南河内の物産の集散地として栄えたようで,商工会館はその名残かと思われます。
 道標から,南北に交差する道が東高野街道のようです。これを北へとっていくと,北河内のヨメさんの実家の前にくるはずです。南へとると紀見峠越で,高野山のはずです。さすがに遠いですが歩いてみたいような?(ウソです)
 それはともかく,北へ少し行くと,応神天皇陵と誉田八幡宮があるはずです。竹内街道を紹介したサイトで,古市にきたら足を延ばしてみるとよい,と書いて あったので,時間もあることだし,行ってみることにしました。東高野街道と国道170号(バイパス?)と交差するところには,かなり大きな常夜燈もあっ て,な かなか感じのよい街道です。祭礼の提灯が飾ってあって,写真はとれませんでした。

【誉田八幡宮】
 誉田別命(ほむたわけのみこと,こんだ・・・ともいいま す。応神天皇,大王というべきか)を祭神としています。本殿の北奥には応神天皇陵があります。仁徳天皇陵についで大きい前方後円墳で,地図をみると八幡宮 側は「後」の円い部 分になるようです。境界には石造りの太鼓橋(放生橋)がありましたが,もちろん通れません。そばに幼稚園がありました。


 応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたとあります。後冷泉天皇の頃(1045-65)になって、南へ1町離れた現在の場所へ造り替えたことが伝えられています。
 毎年9月15日の大祭には,神輿が放生橋を渡って応神陵の濠のほとりまで運ばれ、祝詞の奏上や神楽の奉納などの神事が行われるそうです。かつては陵の頂 上まで渡御していたといいます。放生橋は花崗岩製の反橋で,鎌倉時代に造られたと伝えられます。長さ4m,幅3mで,普通に歩いて渡るのも難しいほど
円くなっているのに,御輿をかついで渡るんですね。
 本殿は,両翼をしっかり張った,落ち着きのあるものです。右近
の橘,佐近の桜が植わっていました。今日は祭礼(だんじり巡行)なので,宮司さんが土地のひとと打合わせをしていました。鳥居の前は夜店の準備もされていました。


【応神天皇】
 15代天皇,仲哀天皇の第4子,母は神功皇后で,小さい頃即位したので,神功皇后がながく摂政をしたとされています(以上,神話)。応神天皇41年,西暦370年,応神天皇は崩御。
 応神天皇は,いろんな考証により,4世紀後半に実在した最初の天皇であると考えられています。かつ,応神天皇を境に王朝が交代したとする学説が有力で,旧王 朝を崇神王朝(三輪王朝),新王朝を応神王朝と呼んでいます。要するに,応神天皇の頃,4世紀末にヤマト政権は大きな転換期を迎えたようです。
 ひ とつは,河内平野への進出です。「河内湖」の干拓事業は,次の仁徳天皇のころだと思いますが,応神天皇のころから河内平野への新田開発などの進出があった ようです。そのため,ヤマトからのルートのおさえが必要です。ヤマトからまっすぐ西へいくのは竹内峠越ですが,そこは当時は葛城氏がおさえていたので, もっと北の大和川ルートとか木津川ルートだったと思われます。
 木津川ルートの確保については,仲哀記、神功紀に見える忍熊王(おしくまの みこ)の反乱伝承が,それを物語ると思われます。仲哀天皇没後、神功皇后が三韓征伐を終え、生後まもない誉田別皇子を伴い筑紫から大和へ帰還する際、皇子 の異母兄の忍熊王らが「吾等(われら)何ぞ兄を以て弟に従はむ」と挙兵しました。皇后は忍熊王を破り、誉田別皇子が皇太子となりました。4世紀後半には, 下に示すように日本と朝鮮半島の緊張が高まるにつれて,瀬戸内交通の重要性が加わり,一層開発が進んだと考えられます。
 また,朝鮮半島をめぐる政策の違いでの権力闘争もあったようです。こ のころ,朝鮮半島では,高句麗が南下してきて緊張状態になります。百済や伽耶(かや)諸国は圧迫され,これに対して,ヤマト政権は出兵することになります (369年:神功皇后摂政49年,応神天皇40年)。その危機を救い,百済が感謝して七支刀を贈るということにつながったと思うのですが,因果関係は荒っぽい 解釈かもしれません。391年にも朝鮮半島に出兵し,高句麗と戦っています。
 しかし,朝鮮出兵といっても,ヤマト政権内部ですんなり出兵 となったかどうか?従来の宗教的権威に依存する古い王権では,朝鮮半島の情勢に対応できず,出兵などできません。それに代わるべき勢力として,外交や軍 事,交易を担っていた河内の勢力が台頭し,ヤマト政権が河内へと進出することで,彼らを配下に治めたのでしょう。先の,忍熊王の反乱の実体は、朝鮮半島政 策を巡る4世紀末のヤマト政権の内部分裂で、その結果、応神天皇側が,大王家の正当な後継者である忍熊王を打倒して新政権を樹立したと考えられています。
 こ うした盟主の変動は吉備や上毛野(かみつけの)でも認められ、「畿内の政治的変動に連動して地方の勢力も再編され,南九州では生目に代わって西都原の勢力 が盟主の座についた」とみられています。また,「日向の諸県君(もろがたのきみ)一族が河内大王家の姻族となっているのは、彼らが応神側に加担し勝利に貢 献したことを物語っている」ということです。
 結果として,このころから,巨大古墳=大王墓は、奈良県大和盆地に営まれていたのが、河内平野の古市古墳群(この応神天皇陵など)等に移動しました。そして5世紀には大仙陵古墳(仁徳天皇陵)のような超巨大古墳が出現します。これはヤマト政権が 大和盆地から河内平野も勢力圏に組み入れたことを示すものと理解されています。日向でも4世紀まで最大の古墳は生目(いきめ)古墳群に営まれていたのが、 5世紀には西都原古墳群に男狭穂塚(おさほづか)、女狭穂塚(めさほづか)が出現するようになります。5世紀の古墳に,鏡や玉類に代わって朝鮮半島系の鉄製馬具や甲冑(かっちゅう)が副葬されるようになるのも、被葬者の性格が司祭者から軍事指揮官へと転換したことを示しているのでしょう。
 なぜ日向の動向を入れたかというと,「いわゆる神武東征―初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内政権の時代に、4世紀末の内乱をモデルに構想された もの」とみる学説もあるからです。つまり王権を奪取した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身とすることによって、自らを正当化しようとした というのです。日向を出発した神武天皇の船団は、河内の草香邑(くさかのむら)の白肩之津(しらかたのつ)(東大阪市)に上陸します。この草香は5世 紀代、諸県君一族の髪長媛(かみながひめ)と仁徳天皇の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ)ら日向系王族の拠点だったようです。「神武が日向を出 発し草香に上陸しているのは偶然とは思えない。神武が大和の在地豪族長髄彦(ながすねびこ)を破り、橿原宮(かしはらのみや)(奈良県橿原市)で即位した とする記述も、応神が忍熊王を破り軽島の明宮(あきらのみや)(同)で即位したことに対応している」
なかなかおもしろいと思います。
 応神天皇の頃は,大陸,半島からいろいろな文物が導入されて来ました。大陸の金工、木工、革工,縫工また船匠鍛冶工など諸種の工芸が移入されて,文化工芸が飛躍的に向上しました。これらの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。また,百済からは,阿直岐を招き,我が国に始めて漢字を伝えると共に,王仁は論語(儒学)・千字文を伝えたとされています。王仁が難波津で船を下り、竹内街道を通って大和の朝廷へ歩いたのは応神天皇の治世である4世紀末のことでした。

【誉田だんじり】
 商工会館の辻から北に東高野街道をとり,近鉄の踏切をわたると,何か音が聞こえてきました。コンコンチキチンは祇園祭りですが,それとは明らかに違う力 強いリズミカルなお囃子です。カネ・太鼓で,カンカラカンカン・カンカンカンカン!というような感じで,迫力があり,聴いていろうとウキウキしてきます。 電柱にはってあったビラをみると,9/18-19は誉田八幡宮の祭りのようです。ラッキー。

 ふいに横丁からだんじりが出てきました。小さいながらも本格的です。囃子方が乗っていて,調子を盛り上げながら北へ行きます。わたくしもぞろぞろついていきました。揃いの赤いハッピをきて,若い衆が引っ張っていきました。さすがに河内ですね。

 誉田八幡宮の境内に東門から入ったところに倉庫があって,そこから別の組がだんじりを出したところでした。これは結構大きなものです。今度は黒のハッピきた若い衆でした。参詣道の中ほどに南大門があって,外から別のお囃子が聞こえてきます。また別の組のだんじりのようです。追いかけていって写真をとりました。

 誉田八幡宮からの帰り道,古市の商工会館前の辻でも違うだんじり組に遭遇しました。かなり大きいもので,屋根に登って音頭をとっています。練習でなく,本番のようです。ちょうど辻まわし?があって,かけ声をかけて一斉にターンしました。と,お囃子の調子が変り,テンポアップしました。文章で表現できないのですが・・・


 今回はタイミングよくだんじりまつりにあえて,さいさきよいウォークとな
りました。

 

 


【臥龍橋】
 商工会館の辻を東にとると,すぐ蓑の辻です。江戸時代の両替商銀屋の建物があったそうですが,取り壊されて,跡地らしい場所には道路を新しくつけてモダ ンな住宅がたっていました。辻(というよりL字の角)は公園のようになっていて,案内板がありました。惜しいですが,個人の建築物だったよう
なので,古い建物を修理しながら管理していくのは金銭面で難しいのでしょう。

街道はすぐに石川の川べりに出ます。臥龍橋を渡りますが河川敷はスポーツ公園のように整備されていて,子供達のソフトボール大会で。臥龍橋。龍がふせっているような形から(ほんとか)きていると思いますが,水神である龍から名前をとっているのでしょうか?

 石川東岸の川沿いの道が166号線と分岐するところにある道標が2つありました。

  日本最初大黒天通 是より五丁
  右法華寺 江 是より七十丁  (安政6年)

 車はみな,石川沿いの道をいくのですが,ここから東へ折れ曲 がる路地みたいなのが,国道166号線で竹内街道です。わざわざ矢印入りの国道の表示がありまし た。だれもこれが国道とは思わないでしょう。そういえば,今まできた古市駅からの竹内街道(これも路地みたいなもの)も国道166号でした。考えてみれ ば,,広い車道ができたからといって,古代の官道を格下げもせず,国道として管理しているのも国家の姿勢としては正しいのだとも思います。  車はみな,石川沿いの道をいくのですが,ここから東へ折れ曲がる路地みたいなのが,国道166号線で竹内街道です。わざわざ矢印入りの国道の表示がありま し た。だれもこれが国道とは思わないでしょう。そういえば,今まできた古市駅からの竹内街道(これも路地みたいなもの)も国道166号でした。考えてみれ ば,,広い車道ができたからといって,古代の官道を格下げもせず,国道として管理しているのも国家の姿勢としては正しいのだとも思います。

 


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竹内街道完結編    竹内峠越え    駒ヶ谷-竹内

【駒が谷から上の太子】
 近鉄駒が谷の駅前には逢坂橋があります。この橋から臥竜
橋の辺りまでの街道の周辺を地元では「古市の川向い」といって、河内木綿の問屋十数件あったようですが、明治初期の二度にわたる大水害で流されたりして問屋町は衰退しました。今はプラスチック工場などがたっています。そういえば,杜本神社を過ぎたあたりのL字型の辻はおそろしく道が狭くなっていて,そこに木造の倉庫のようなものがありました。木綿倉庫か?
 杜本神社は入口の石碑だけ撮って,パスしました。上りがキツそう。

月読(つきよみ)橋のたもとではおばあさんが2人,話しこんでいました。橋を過ぎると駒が谷小学校です。
 ここからさきは急に広い道になり,見晴らしがよくなりました。ここは一面のぶどう畑で,北側の山のてっぺんまで続いています。東には二上山がよく見えました。道の向こう側には役の行者の聖水という小さな井戸があって,一休みしました。


 上の太子の駅近くから,また国道は細くなって村の中の街道という風情になります。上の太子の駅って太子町でなく羽曳野市なんですね。

 おなかが結構空いてきたので,喫茶店を探しながら歩いています。駅前には村の雑貨屋さんみたいなのがあって,パンとかジュースがありそうでしたが,パス。すぐに広い道になり,ここからが太子町です。


 まもなく高速道路の下をくぐります。春日の交差点で竹内街道は分かれて村の中をいきますが,こちらは喫茶店探しのため広い道を行きます。が,ない! 結局,六枚橋の三叉路まで行ってしまい,橋をわたったり戻ったり,うろうろしましたが,近くにあったスーパーマーケットで巻き寿司と柿の葉寿司,お茶,ナッツを買って休憩しました。だけど食べる場所がない。

【街道らしい登りだ】
 ここからは竹内街道は車道と分かれて静かな登りになります。ナッツをかじりながら登っていきました。

 道標からすぐのところに孝徳天皇陵があったのでお参りすることにしました。道端には白い彼岸花が咲いていました。お弁当を食べようと思ったのですが,あまりに失礼なのでお参りだけにしました。びっくりしたことに,この細い街道をタクシー乗りつけ,お参りにきた夫婦がいました。わたくしより若そうなのに,歩け!

 このあたりから,よく写真にでてくる街道風景がでてきます。しばし写真を,といってもあまり数はないですが・・・


【竹内街道歴史資料館】 
 餅屋橋の道標をすぎて坂道をさらに登ると太子町立竹内街道歴史資料館への道しるべがあります。資料館の軒下にはベンチがあり,灰皿もあったので,ここを借りて昼食としました。気温は高いですが,ここちよい風が吹いてきます。9月も半ば過ぎというのに,ツクツクボウシがないていました。
 館内の展示は,竹内街道の歴史と特定テーマ企画展示です。縄文
時代,石(サヌカイト)の道,弥生時代,最古の官道,太子信仰の道,お伊勢参りの道,と詳しい展示がありました。が,この手の展示は苦手で,その時は分かったつもりになるのですが,すぐに忘れてしまいます。もう1つの展示は,科長神社につたわる船形だんじりの調査報告の展示でした。ほう,これはめずらしい。よほど水運がさかんな土地だったのでしょう。太子町のだんじり祭りのビデオ放映もあって,お囃子が流れており,いかにも河内風のいさましいかけ声が調子のよいリズムにのって流れていました。しばし見とれておりました。

 竹内街道にもどって少し登ると国道にでて,細い街道は終りになります。ここで小休止して,道の駅があったのでお茶を補給しました。道端には彼岸花が咲いていました。

【竹内峠越】
 ここからは車道にでて登りです。歩道がないので危険です。二上山が間近に見えてきました。遊歩道でも作ってくれたら,と思いましたが,歩いて峠越えをする物好きなどはもういないのでしょう。
 途中釣り堀があって,その手前にはさびれた遊園地がありました。パラダイス!にはならないでしょうな。

 ドライブインを過ぎると,広場のようなところに出て,大きなお地蔵さんがありました。ここから間道である岩屋峠 に登る道が分かれています。さらに鹿谷寺跡に登っていく道もあります。子供連れや若いハイカーたちが登っていきました。ここを登ると,岩屋峠から二上山・ 雌岳および雄岳へいくことができます。雄岳ピークを下ったところには悲劇の大津皇子のお墓もあるようで,一度行ってみたいと思っています。

 ボクは車道を行きます。途中,バイクにのったおばあさんがイタドリの花を取っていました。なんということもない花なのですが,野趣があるということなのでしょう。もうすぐ竹内峠です。
 峠には茶店があって,ドライブの人でけっこうにぎわっていました。その前には祠があって,よくみると役行者をまつってありました。役行者御霊水がありましたが,少し土が湿っているだけで水が湧いているわけではないようでした。


 旧道の峠はどうということもないさびれた峠でした。国境の石碑と「鴬の関」の石碑がたっていましたが,雑草にうもれて寂しげなところでした。みんな,車でびゅん,と通り過ぎていくのでしょう。ごみの散乱した峠の休憩所で,しばしタバコを吸いました。


 この休憩所から石段を降りると,下りの街道です。街道らしい風情はまったくなく,林道ですね。しかし,道端には小さな沢が流れていて,この道は清らかな感じはします。南には高速(南阪奈道)通っています。国道166号が北側の山の上のほうを通っているので車の音は聞こえてきません。静かな下り道です。

【竹内の村にて】
 林道の周囲は開けてきて,棚田がでてきました。こんな谷深いところにも田んぼを作っているのです。古代,稲作をはじめたときは,このような,水がすぐに取れるところに小さな田んぼを,積み重ねるようにして作ってきたのだと思います。その後,大規模な潅漑・水利工事ができるようになって,大平野におりてきて,一気に生産力があがり,それを支配する豪族が,周囲の氏族を従えて,地域小国家を作ってきたのだと思います。
 まもなく,竹内の池の端にでました。けっこう大きな池です。司馬さんの乗った車が故障したのは,ちょうどこの上の国道だったようです。谷の向こうにはお寺があって,なんとペット用のお寺でした。

 菅原神社(左手崖の上にある)のあたりで、街道はまた国道から分岐 して,風情のある竹内の村に入っていきます。ここから500mくらいの間は落ち着いた街道風景が楽しめます。ちょうど太子町の街道沿いの感じですが,家々 はほとんど格子戸をそなえていて,古いけれども清楚で由緒ありそうな家ばかりです。よほど裕福な土地柄のように思えました。たまたまあった,酒店の名前も 「柿下酒店」ということで,さすがに由緒正しい名字が使われています。


 ヤ マトから見ると,この竹内峠を越えた向こうは異界なのです。二上山には大津皇子のお墓もあるし,二上山の向うの太子町には,ヤマトの高貴なお方のお墓が山 ほどあります。柿下人麻呂の柿下の意味は垣の下ということらしく,垣とは異界と人間界の「境界」をあらわします。柿本氏は,宮廷の外周ないしは宮廷の領地 の境界にあって,そこを守護し,葬送儀礼を専門的に行った職能部民でした。なるほど,末裔とはいいませんが,やはりこの地には柿本さんが住んでいるのですね。

 快適に街道を下っていくと,道標があって,古街道との辻がありました。
右 大峰山・・・,左 京・・・とあり,竹内街道は吉野を経て,大峰山へ修行にいく道であもあった思われます。
 

 この竹内街道ウォークを思いついたのが,司馬さんの「街道をゆく・竹内街道 葛城の道」であったので,最後は司馬さんの話でしめたいと思います。
 司 馬さんは子供のころ,よくこの地にきていました。母上の故郷が竹内だし,母上の病気の関係で竹内に近い今市の村に預けられていたらしいのです。そういうこ ともあって,福田定一少年はここで,サヌカイトの鏃ひろいに熱中するのです。一時などは,熱中のあまり,学校の成績もさがってきて,大変だったらしいで す。石器オタクといえばそうで,そのとき「いったいどういう連中がこの葛城に住んで,この石器を使っていたのか?」という疑問をもったそうで,その疑問が 歴史に向かわせ,「街道をゆく」を書かせたといってもいいでしょう。また,昭和18年,兵隊にとられて,出征する日が近づいてきて,どうせ死ぬだろうと 思って,司馬さんは竹内峠にいくのです。その峠道で,自転車にのった葛城乙女と一瞬の出会をする。その道がこの登り道なのでした。


 司馬さんは,「街道をゆく」の中で,こういっています。「葛城を仰ぐ場所は長尾村の北端であることが望ましい。それも田のあぜから望まれよ。」
少し場所は違うが,竹内の交差点あたりをうろうろしたあげ,竹内の田のあぜから,司馬さんに敬意を表しながら,葛城山の写真を数枚撮りました。

 

竹内街道當麻寺編               当麻寺

  竹内で喫茶店を探し,大休止したあと,竹内街道の終点 である長尾神社までいくのはやめにして,當麻寺へいくことにしました。というのも,折口信夫「死者の書」を読んで,3回目にしてようやく味わい深い小説で あることが分かりかけてきて,物語の地である當麻寺にぜひ行ってみたい気持ちになったからです。

【死者の書】 死者の書は,最初,石棺のなかの死者の独白から始まるので,いったい何のことかと思っていたら,二上山に葬られた大津皇子のことだったんですね。すごい書き出しだと思います。物語では,奈良時代,藤原南家の郎女が,秋の彼岸の中日の夜になかば神隠しにあったように,ふらふらとこのお寺にくるのです。
 物語の藤原南家の郎女は,當麻寺につたわる「當麻曼荼羅縁起」の説話にでてくる中将姫と重なるのですが,浄土信仰へ誘う役所ではありません。彼女は,乙 女を 過ぎ,大人の女性に変わっていこうとする年代に設定されています。もと語部の老女などから,昔語りやいろいろな話をきいて,「躾」を受けるのですが,なぜ か飽き足らない。彼女が住んでいる女部屋からは,家のまわりの畑くらいしか見えない。そういう生活を続けていて,よい時期になれば,どこか高貴なお方のと ころへでも輿入れして,なにも疑わず,さらに家に「囲われた」生活を続けていくのが,この時代では,普通だったでしょう。

  一方では,この 時代は,西方の大陸から,竹内峠をこえて新しい文物がやってくる。この時代の最先端の考え方や知識というのは仏教でしょう。それも,より新しいものが細切 れのようにして伝わってくる。彼女は仏教学生ではないので,当然にもまとまった仏教体系はしらないのですが,それでも断片は伝わって,それが彼女の心をと らえたと思うのです。時代の新しい雰囲気というよいうなものが彼女をとらえている。この雰囲気のなかで彼女はものを考えるようになった。
 彼女は,父からの贈り物として,称讃浄土教を手に入れ,一心に写経するようになる。千部写経にいそしんでいるある春分の日の夕方,彼女は二上山の峰々の 間に 落ちていく夕日のなかに,瞬間,荘厳な人の姿をみたのです。彼女の心はその日以来,澄んだものになる。一方なにかしらの寂しさも感じるようになる。さら に,その年の秋の彼岸の中日にも同じ体験をする。

 次の年の春の彼岸にはようやく千部写経を終えるのですが,その日は雨で夕日は見えなかった。夜からは嵐になり,その夜,彼女は家を出て,一人でこの當麻寺に来たのです。そこで,風とともに二上山から降りてくる大津皇子の霊と交感する。
 この物語は,われわれ日本人が昔からもっているお天道様への信仰(太陽信仰と書いてしまうとちょっと?)と,それを基にして,外来の仏教という刺激で醸成された仏という形をした「神」へのあこがれを書いていると思うのですが,わたくしは,それとともに,ものを考えるようになった女性(でなくてもよいのですが)が,われわれを生かしている,より大きなものの存在を想いはじめた,その心の動きの方に気を取られて読んでいました。なかなか愛らしい女性であると。宮崎駿さんの一連のジブリものの映画の主人公を思い出してしまいましたが,宮崎さん,この映画を作らないかな?ピッタシくるものがあると思うのですが。

【當麻寺】
 ・・・てなことを考えつつ,二上山を眺めて,写真スポットを探し,暑い暑いと思いながら歩いていきました。門前の喫茶店でまたタバコ休憩です。3時過ぎですが,さすがにここはお参りする人が多いです。

 お寺などでは,普通,お賽銭箱の前ですませてしまうのですが,せっかくの機会なので,本堂で500円を払って,中を見せていただくことにしました。ご本尊は「當麻曼荼羅」です。中将姫が蓮糸を紡ぎ,染めて織り上げたと伝えらるもので,原本は非公開。ここ須弥壇の上には,転写された文亀曼荼羅が祀られています。金網の向こう側にあって,詳細はよく分かりませんでしたが,思わず正座をして解説テープに聞き入ってしまいました

 「當麻曼荼羅」の裏側には,裏板曼荼羅がありますが,この日は開扉ではありませんでした。これは,古曼荼羅を張り付けてあった板ですが,完全に剥がれないで残ったものらしいです。
 その他、本殿曼荼羅堂には,當麻曼荼羅が織られた部屋「織殿の間」には織姫観音とよばれる十一面 観音(弘仁時代・重文)が祀られ,弘法大師が修法された「参籠の間」では弘法大師三尊の張壁が拝観でき,開山の祖・役の行者も弟子の前鬼,
後鬼とともに祀 られます。曼荼羅の横にある中将姫の座像もそうですが,ここでは,至近距離で拝めるのがいいです。この日はたまたは参拝は一人であったので,十一面観音, 弘法大師,役行者の像の前では正座しじっくり拝んできました。季節や時間を少し外すと,独り占めという感じで対峙できるのがとてもいいです。


  ふだんはあまり宗教心などないのですが,1:1で対峙する と少しは「信仰」というものも考えてしまいます。弘法大師「密厳浄土」ということを説かれました。ひとりひとりが仏を念じ,自らが菩薩である自覚をするこ とによって,この世がそのまま浄土になる,「現世浄土」の教えです。これも文章だけよんで理解しようとするとよく分かりませんが,當麻寺のサイトにあるよ うに,當麻曼荼羅を想い,浄土に集う仏さまを念じ,自分自身もこのような仏さま菩薩さまのように生きようと心がければ,お大師さまの教えのように,この世がそのまま浄土に感じることができるかもしれません,ということなのでしょう。
 要は,「浄土は遠くにあるものではなく,ほとけさまは心の中に,お浄土は実
は目の前にあるんだと,心に念じ,明るい毎日を送っていきましょう。」ということで,「ああ,また失敗だった」ということもしょっちゅうなのですが。

 金堂には四天王を従えた弥勒菩薩像があります。これも至近距離で対峙できます。触れるくらい近い(さわっちゃダメですが)。こういうところでは,じっくり時間をかけて見る,というよりボーっとするのが良いのだ思います。
 講堂も拝観できるのですが,ここはパスしました。あと,中之坊は別料金なので(時間も時間だし)ここもパス。大師堂はお参りしてきました。ここはちょっと寂しいところで
したが,6角形のお堂があって,すこし心を引かれました。付近には中将姫をまつったお堂もあるらしいのですが,良くわかりませんでした。

【西南院】
 水琴窟にひかれて庭園を見学してきました。三脚,一脚禁止ということなので手持ち撮影はよいのかと思いましたが,写真は遠慮しときました。代わりにパンフレットからスキャナで写真を取り込み。

 庭園はなかなかのもので,一見の価値あり。シーズンはボタンとしゃくなげの咲く5月連休と紅葉の11月あたりだと思いますが,このあたりは落ち着いて見られないでしょうね。シーズンをはずすのがベストかと思います。
 庭園に入ってすぐ水琴窟がありました。耳をすませば,ツクツクボウシの鳴き声に混じって,「キン・・・,コン・・・」たしかによく聞こえます。実際にきくのは初めてだったので,長いことたたずんで聴いていました。

 庭園は周回できるようになっていて,高台もあり,見晴らしはよいです。申し込めば,庭を眺めながら,抹茶とか精進料理もいただけるようです。こんどゆっくりきてみようと思います。巡回路の一番高いところには「脳天仏」というのがあって,なにかと思っていたら「頭から上全部にききます」ということで,思わず笑ってしまいました。もう手遅れかとは思いましたが,100円でいっぱいお願いしてきました。厚かましいか!
 帰りの順路にも水琴窟があり,ここは楽しめます。また来ようと思いました。

【帰りには恒例の・・・】
 帰りに,二上山をバックにパチリ。お彼岸には二上山のコルに夕日が沈むのでしょうか?この位置からは左にずれるような気がします。落日までまだ時間はあるので,次回ということで帰ることにしました。麻呂子山をバックに中之坊と東塔を撮りました。

 さて,ウォークの終りはやはり,コレです(写真はお店のサイトからお借りしました)。近鉄・當麻寺駅前に中将堂本舗があり,名物の中将餅を販売しています。もちろん,買って帰りました,2箱も。

変貌する竹内           

2009年11月7日(土)

        

 4年後の11月、「葛城みち」ウォークの最後に竹内を訪れました。

 その時の様子ですが、竹内はすっかり変わり果てています!絶句ものです。竹薮の古墳の横の道にフェンスが張ってあり、たくさんの幟が。どうや苗木屋の新開店ようです。それはいいとして、竹内の交差点あたりは宅地造成で住宅建築中でした。(15:27)


 司馬さんはこのあたりから眺める葛城山が絶品だと書いていましたが、もう無理なようです。前回きたのは2005年9月で、まだ家は少なく、たしかに司馬さんのいう葛城山が望めました(多少荒れ 気味でしたが)。比較写真を載せておきますが、4年でかなりの変わりようです。もう写真を撮ってもおもしろくありません。(写真左:2009年、写真右2005年)
 都市化して生活は便利にはなるんでしょうが、生活環境がよくなったとはどうしても思えません。高天原散策をキャンセルしてここまで歩いてきた理由のひとつが、もう一度竹内を見たいということだったんですが、これでは・・・


 竹内街道に少し入ってみましたが、状況はあまり代わりませんでした。これはもう「やむを得ない」と考えるしかありません(15:50)。

 

 ここから二上山を見ながら當麻まで歩き、當麻寺駅前の中将餅を買って帰りました(16:05)。これはいつも大人気で、写真をとろうと思って置いていたら、いつのまにかなくなっていました!

 

 

(いったん終り)

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