2013年10月17日
十三街道に入りました。これからしばらく若江で第2寝屋川を渡るまでは俊徳街道と共通です。
十三街道に従って、上小阪、若江、福万寺、楽音寺、大竹、神立と歩いていきます。今日は時間的に大竹の心合寺山古墳までとします。
しかし、十三街道もよく分からないところがあって、道間違いがあります。
(1)ボクはいきなり長瀬川沿いに150mほど南下して東の道に入りましたが(これが十三街道だという人もいて)、普通は宝持西の交差点まで行ってから南下するようです。
(2)さらに、小阪小学校の一つ北のナナメの道に入るのが正解ですが、ボクはあえてまっすぐ東に進みました(弥栄神社へのショートカットのためです)
(3)若江で南下して第2寝屋川を渡って、西郡まで行くのが正解ですが、幸町で東に入りました(これが十三街道だという人もいて)
俊徳街道は、西郡の先はよく分かりませんが、山本に向かい、そこから服部川の山畑に向かうとのことで、それらしいルートを赤で書いておきました(正しい保証はありません)
より大きな地図で
俊徳街道 を表示
菱屋西の交差点から長瀬川に沿って南下します。ただいま、15:00ジャスト。心地よい散歩道です。
お地蔵さんの辻。辻というには少々垢抜けています。子守地蔵と書いてあります。子守○○というのが多い。
ここで正規の十三街道と合流するはずです。正面の細い道に入る。
50mほど正規の十三街道と合流したあと、Y字路で右に曲がるのが十三街道。ボクはまっすぐ行きます。さりげなく唐臼の台座が置いてある。
見事な板張り。間もなく突き当たりになります。左へいけば弥栄神社のはず。
このあたり、宝持という、おめでたい地名がついています。少し先ですが、近大上小阪キャンパスの入り口辺りにもこの名前の信号がある。はたしてご利益は。宝持=ほうじ だそうです。
あとで調べてみると、通過していくにはもったいない、由緒正しき土地です。須田さんゆかりのお好み焼き屋(喫茶店?)はどこや?少し北に足を延ばせば、司馬遼太郎記念館もあります。
http://maido-higashiosaka.com/2/chimei2/article/%E5%AE%9D%E6%8C%81
さて、弥栄神社のはずですが、どうも様子が違う。とりあえず弁天さまと地蔵さまを写真に撮りましたが、実は、ここは裏口で、もう少し先に鳥居があるのでした。仁和寺の法師状態。
http://www.xhotzone.net/vh/27a/vh08082401.php
弥栄神社は、やえ 神社というそうです。
近大のスポーツセンター、反対側に記念講堂があります。
そこを過ぎると、近畿自動車道で大迂回を強いられます。
巨摩橋の交差点。ここで同時に第2寝屋川を渡ります。
えらくスマートな八頭身?地蔵。巨摩の身代り地蔵尊となっていました。(15:36)
後ろに樹の一本でも植えんかいな?と思う。そういう奥ゆかしさを持ちたいが。
第2寝屋川の河畔から撮っています。だいぶん生駒山脈が近くなってきました。
第2寝屋川から分かれて東の道にはいります。昔懐かしい住宅が続く。
河内街道との交点にきました。四つ辻でなくT字路です。
電柱の向こうの道が河内街道で南北に走っています。道標は90度くらい時計回りにずらせばいいのでは。
東向きに撮っていますが、まっすぐは駐車場。右(南)が八尾。
大坂道でなく、大阪道とあるのを見ると、明治以後のものなのか?
■若江鏡神社
祭礼の提灯が盛大に飾られています。祭礼は10月10日で、終わったところ。
若江鏡神社は少なくとも1200年近くはこの地に鎮座している、相当な古社であるらしい。神社及び数多くの宝物は、大阪夏の陣で兵火にあい焼失したので、由緒などよく分からないというにが正直なところらしいです。
ご祭神は大伊迦槌火明大神 仲哀天皇 神功皇后ですが、大伊迦槌火明大神(おおいかづちほのあけのおおかみ)がよく分からない。「大雷(荒魂)と、火明命を尊んで称したもので、この神様は、強力な霊力と、建築技術・造船・医療・精錬・採鉱・武力等を備えた大部族の長だと言われています。」と公式サイトには書いてあります。
ご祭神は不明なところがありますが、戸原さんの解説では、
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/naka-kagami.html
火明命(ホアカリ)は、太陽の光や熱を神格化した自然神・太陽神を指すと解すべきであろう。古い太陽神・天照御魂神(アマテルミタマ)を人格化したのがホアカリ命と見ることもできる。
大雷大神は自然神である雷神で、水神であるとともに太陽神でもあり、ホアカリとも通ずる。
とありまして、他のサイトを参照しても納得できるところです。
祭殿は東向きで、鳥居から東を確認するのを忘れましたが、近くの第2寝屋川の橋(八幸橋の西の橋)の上で東をみると、ちょうど鳴川峠付近の山が左端にみえるようです。右端は十三峠の南のP462あたりでしょう。このあたりから朝日が上がってくるものと思われます。それを見ると、あまり信心深くない者だって神々しく感じるでしょう。
拝殿にお参り。本殿はよく分かりません。拝殿の裏手に、鏡塚とか雷神の手形石とか、磐座みたいな立石があるそうですが、見てません。事前にそこまで調べていない。
周囲は標高4~5mの低地なので、中洲のちょっとした高みに自然に運ばれてきた石をアンカーみたいにして太陽をお祀りしたのではないでしょうかね?
灯篭の窓のデザインが○と三日月です。太陽と月か。
鏡を祀る祠がありましたが、八雲 歓喜天と書いてありました。カヤのご神木に住む己さんを祀るものだそうです。そういえば、カヤの樹があったような。
水神社
旧い鳥居の足か?明治の中頃までは、若江南・若江北・西郡・友井・近江堂・上小阪・下小阪・宝持・東岩田・西岩田・菱江新田等、十二地区の郷社でした。
当地は、そもそも低地という印象でしたが干ばつに苦しめられたのか?若江の由緒にも、「神功皇后御在世四年六月に大旱魃があり、近郷一帯の農作物が殆ど枯死寸前」になったとありました。
鏡神社を退散し、第2寝屋川を渡ります。河内街道兼十三街道。(16:00)
第2寝屋川を渡って、一つ目の筋を東にはいりました。正解はもっと南、西郡天神社の前を東に入るようです。
しかし、この筋を入ったところに、八尾市の埋蔵文化財センターがありました。八尾市は文化財に対してもかなり力が入っている印象ですよ。
何もない広場。公園のようですが、こういう草ボウボウもありかなと思います。しかし子供は遊ばせないんだろうな。
このカーブした空き地はなんでしょう?河道のい跡か、線路の跡か、はたまた道路計画でほっぽり出したか?こういうの気になる。
団地に中に入ってしまいましたが、通り抜けると玉串川を渡ります。
三十屋根の農家住宅。かなり凝ったデザインだと思う。
祭礼の提灯が並んでいます。
三十八神社の鳥居。ロングストレート!
かなりクルマ通りが多いです。
三十八神社(みそやじんじゃ)の由来は、掲示によると、
『三十八神社(みそやじんじゃ)の由来は、三は御祭神(天照皇大神・八幡大神・春日大神)を表し、十八は、神々に対する敬語と伝えられている。
この土地に、当神社が建立された年代は明らかではないが、正平年中(北朝の文和年間1352-55)佐々木守綱八世の子孫、佐々木二郎盛恵の居城、福万寺城址と記されている。』
10月20日が祭礼のようで、さすがに綺麗です。チリ一つ、葉っぱ一枚も落ちていません。
三社神社
境内に、別に、三社神社というのがあって、ここの祭神は猿田彦命、武甕槌命、斉主大神(いわいぬし)です。
斉主神は香取神宮の神で経津主命と異名同神です。そうすると、どうしても春日系か。
猿田彦命は、「天孫ににぎのみことが降臨のときあめのやちまたにいたが、あめのうずめのみことの尋問をうけ、名をなのり道先案内をつとめました(書紀)」ということなので、道案内の神様ですね。さいのかみ同じく、道行く人を災難から守り邪霊の侵入を防ぐ神としたのでしょう。まことに街道筋ならではの神様です。やっと街道らしくなってきた。
神社の鳥居の横に「条里割遺構(福万寺)」という碑がありました。
なるほど、律令時代にはこの地はもう開けた水田地帯だったのか。
神社の裏手はもうこんな田んぼ、いや、元たんぼの土建屋開発地帯でした。
昔は田の中に細々と街道が山に向かって続いていたのでしょう。村の外れに猿田彦命を祀る意味が分かったような気がします。
塀の中で何をしているのでしょう?航空写真をみても何も分からない。
堤防に上がります。川は恩智川。ここで東からくる箕後川が合流します。左手は府立みどり清明高校。
渡る橋は福栄橋。この元の橋が福万寺の公園に保存されているのだとか。
http://www.xhotzone.net/vh/vh08080902.php
古い橋は、明治9年4月(1876)に造られ、昭和48年(1973)の恩智川改修工事の際に橋が付け替えられ、橋脚部分を除いた板石と高柵部分が残されているとのこと。見にいくか?
こんどは箕後川沿いにまっすぐ東に歩きます。
福栄町緑地となっていますが、緑地がないただのグランドで野球の練習をしていました。
その向こうは八尾市のゴミ捨て場でした。
外環に遮られてまっすぐ行けませんでしたが、ひとつ南の信号で外環を渡ります。
さらに東高野街道を渡る。ここは見覚えがあります。東高野街道歩きの時、ここを曲がって大竹の方に行ったので。右手には万代百貨店がありますので便利。
ゆるやかな坂を登っていきます。2回しか通ったことがないのに見慣れた光景。
ここで左からくる十三街道(外環で遮断されたので通らなかった)に復帰。さらに登っていきます、
今度はここを右折します。細い道ですが、東高屋街道より山際を走る古い道のような気がします。
この笹薮の記憶もあります。
古墳が見えてきました。心合寺山古墳。
全長約160m、後円部の直径が約92m、高さ約13m、前方部の幅が約90m・高さ約12mの前方後円墳です。前方部が南方古墳時代の中期、5世紀初め頃に作られ、当時このあたりを支配していた豪族の墓と考えられています。もちろん登れます。古墳の基本構造の学習にはもってこい。
犬の散歩させてます。
ただいまジャスト17:00です。かなり飛ばしたつもりですが、結構時間がかかりました。これ以上は暗くなるので、本日のウォークは終了です。さて、バスを使わざるを得ないので、家まで2時間。
次回は十三峠を越します。