2013年10月17日
夕陽丘、四天王寺-生野ーと歩き、岸田堂で河内に入り、俊徳道(駅名)と俊徳街道をあるいて、菱屋西で十三街道と接続するまでを歩きます。上町台地の高みからだらだらと下って、古代には旧河内潟の入江と旧大和川の三角州のキワあたりをまっすぐ東に至るコースです。要は旧湿地帯で、今歩いてその痕跡が分かるかどうか?
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■まずはどうしても上町台地の下から
地下鉄恵比須町を出たところです。これがないと始まらんでしょう。(11:15)
■トラックで隠れてしまいましたが、合邦が辻の閻魔堂
ほんまにあるんや!
歌舞伎、文楽で俊徳丸伝説をベースにした演目である「摂州合邦辻」のクライマックスの場面に出てきます。いちおう粗筋だけ読んでみましたが、最後の修羅場で継母である玉手が父に殺され、後はハッピーエンドになる訳ですが、やはりハッピーの裏には己の身を引く犠牲者が要るというので、庶民も納得し、「ほんまはワタイもそうなんや」と、自分が不幸なのは、実は人様の為になっていて、歌舞伎はそれをちゃんと見てくれて美しく演じてくれている、と、また大いに納得して涙を誘うところなんでしょう。歌舞伎のチカラはここにあるのか。
道は四天王寺に向かってゆっくりと上っていきます。
■この坂は逢坂という
「天王寺七坂」の一つですね。天王寺区七坂は、北から順に、真言坂・「源聖寺坂・口縄坂・愛染坂・清水坂・天神坂・逢坂の7 つです。
■安居天満宮
いろいろ出てきますね。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承や、大坂夏の陣で真田幸村が当神社境内で戦死したと伝えられています。大阪の人は菅原道真も真田幸村も好きやね、と思う。
■一心寺
「ここから見てみ、どや、ありがたいやろ」という感じで設計したものか?山門をみると、ゴツイ大屋根が・・・これが山門なのでしょう。その前には巨人が!どうもこのゴツイ建物を見ると仁王像は巨人としか思えません。
奈良の大仏や巨大古墳にしてもそうですが、目を見張るようなど肝を抜く建造物で民心を引き寄せる(あるいは、平伏させる)というのは昔からの伝統ですかね。昔の五重塔等は技術的にはすごいと思うものの、あまりありがたみを感じなくなっています(ボクは)。
しかし、一心寺のこのデザインは現代のお寺として生き残るには一つのは考え方かと思います。こういう建築ともども、宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れたり、自前の劇場を持って、演劇やコンテンポラリなダンス、寄席などもやっているのは新しいビジネスモデルを考えているのでしょう。悪くはないと思います。
■一心寺の前から伶人町の方に行ってみます
清水寺の墓地から見る通天閣。高いの好きやね。写真は少し南寄りに振っていますが、ここから見る夕日もビル群に遮られるかも知れません。
下りる坂は清水坂。
■星光学院の下あたりから見上げています
確かに崖だ。海蝕崖でしょう。手前にある坂は愛染坂です。ここを登ります。結構あります。自転車を押したげたらよかったかな、と反省。
■愛染坂を上った先にある大江神社
ご祭神は豊受大神でした。豊受さんは雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「ひとりでご飯が食べられへんので、丹波国の等由気大神を呼んで」と言って、丹波(分割前)から連れていかれた神様。
アマテラスさん、なにゆーてはるんですかね、この話。ご飯ぐらいひとりで食べーや、といいたい気もします。アマテラスさんに気に入られたので悪い気はしませんが、元伊勢の栄誉をいただいて神様がいなくなった。元出雲とか、元住吉とか、元○○というのは畿内周辺にいろいろ見られますね。服属を伴う大宗教改革が完成したのか?歴史家にはここんところをはっきりしてほしい。
豊受大神*大江といえば、加佐郡大江町(今は福知山市で丹波になった!)には元伊勢の外宮・豊受大神社があります。崇神天皇の御世、豊鍬入姫命(とよすきい りひめ)が天照大神の御杖代として各地を回るときに、最初の遷座地が丹後(分割以前は丹波)でありました。ということで、豊受大神には結構親しみを持っています。ここの大江は、大江町の話を引いているのか?
右は日吉稲荷神社。赤い幟でいつもながら派手です。
■再び坂下の道を歩きます
高いの好きやね、みんな。
清水坂の下の崖。同類が結構見に来ています。
崖下のお墓とその横にある古家、小さな家も集中しています。「大阪アースダイバー」そのままの風景でした。
■最後にもういちど清水坂
途中には何か彫った大岩がはめこまれています。下にみえる二人は多分中国人(中国語をしゃべっていたので。)。さっきのお墓の横を年寄りのおっちゃんに連れられてきました。おっちゃんは「ここ登って右」と言っていたので、四天王寺へいくんでしょう。丁寧にお礼していました。なかなか礼儀正しい中国人です(タイワニーズかも知れません)。いいところを見ています。名所だけでなくこういうところを見ないとね。
この調子で坂めぐりをしていたら、1日あっても足りません。後日ということにして、先を急ぎます。
■四天王寺で大蛇を見た話
左は元夕陽丘図書館。ここにこんなものいらんということで閉鎖になったもので、後に何が入ったかと思えば、主に税金集めの庁舎のようでした。ま、図書館といっても特許情報がメインで、時代はインターネットで検索できるようになっているので不要は不要です。
特に写しておくこともないですが、昔はよく利用しました。
ある日昼食にでて、休憩時間にぶらりと四天王寺を散歩しました。右の門から入りました。ブラブラしていると、路上に2~3m四方の囲いを作って、中に大蛇が!!唖然として立ちすくんでしまいました。中年のおばさんがボォーっと番をしていた。ニシキヘビのようでしたが、5mくらいはあったか?とぐろを巻いていたので正確にはわかりません。なぜこんなところにいるのか、いまだに謎です。
せっかくなので、一回りします
たくさんの地蔵さまが集められている。
ストゥーパ?この手の塔、あちこちで見ます。
大蛇を見たのは確かこのあたりだったかと思います。もう30年以上前のこと。そのときは四天王寺では、こんなこともOKなんやと理解しておきました。
■英霊堂
戦没者(軍人だけでなく、戦争犠牲者も)、災害の犠牲者の霊をお祀りしている、と書いてありました。宗教施設はこうでなければ。ボクは知らなかったのですが、四天王寺は無宗派、正確には和宗ということで、要するに宗派にはとらわれないということでした。災害の犠牲者も英霊なんや。東京の某社は市民も祀ってくれるんでしょうか?四天王寺はそこをきちんと明確にしているようです。英霊堂は四天王寺らしいお堂です。
■六時礼賛堂
昼夜6回にわたって諸礼讃をするので六時礼讃堂です。薬師如来・四天王等をお祀りしてあり、回向、納骨等を行う中心道場でもあります。重要文化財
四天王寺の山号は荒陵山。このあたりは荒陵(あらはか)というところだった。また、四天王寺を造営する際、古墳を壊したから荒陵ではないかという説もある。
そもそも四天王寺は丁未の乱で蘇我氏に破れて敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡に御堂を営み、6 年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされています。日本書紀を読む限り、戦勝記念としか読めませんが・・・守屋祠もあるようなので、こん どじっくり見てみましょ。
■高いのがすきやね、という2枚
この調子では時間が足りそうにありません。とにかく進みます。
■勝山を歩きます
寺田町公園で一服しました(12:00)が、そこにお地蔵様の祠がありました。休憩後、興国高校を通り過ぎます。熊野大神宮は、ここ国分町にあったらしいですが、明治 40 年に久保神社に合祀されたようです。久保神社は行っていませんが、なかなか重要な神社らしい。
このあたりに、摂津国分寺があったらしく、奈良時代の蓮華文や唐草文、軒瓦が出土したそうです。これは知らなかった。
まもなく環状線をくぐります。若干坂を下る感じ。
■勝山の街道筋
多分整地されているので、昔ながらの街道風情は望むべくもありませんが、いい感じの道が続きます。きれいです。もう少し行くと商店がポツポツ現れます。このあたり、北生野商店街です。
くるんか いくで!
通りの名前がよく分かりませんが、先程の「くるんか」店の前のナナメの通りを過ぎると、商店街の名前が代わりました「生和会」。
その次の広い通りを渡ったところの喫茶店で昼食。カレーライズ、ミニサラダ、コーヒーセット、500円。
普通の民家の玄関先がお地蔵さんの祠を兼ねている!
通りがかりに見つけた広場。後で調べると、大阪市生野区では 密集市街地の住環境改善をめざして住宅市街地総合整備事業(住市総)を用いて整備に入っていて、「まちかど広場」のの整備第1号となったのが、「俊徳道せせらぎ広場」。ゆっくり見とくんだった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/forum/forum8/zi023.htm
■なにかと思ったら舎利寺の蔵です
舎利寺は正しくは舎利尊勝寺。
お寺の中味よりも、この蔵の表情が強力なインパクトを与えています。白壁のひび割れも表情のひとつ。「このごろどやねん、ま、ぼちぼち行かな」と、あくまで優しいです。本日のベストショットです。メインのお寺はほとんど見てません。
(左)ちょっと行きすぎまして引き返しました。このあたりの家はレンガ壁を白く塗ったんでしょうか、この正面の家のようなのが多い。長屋も健在です。
■御勝山南公園
公園らしい公園です。麻雀をする人あり、ジョギングをする人あり。大阪管区気象台がここにあったとは。
公園の北には釈迢空の歌碑がありました。「ちょう」の漢字は 「迢」でいいんかな?歌碑通りの字が出ません。
公園の、府道173を隔てた北側は古墳になっています。案内板をみると「御勝山古墳」。5世紀前半(古墳時代中期)の築造で、全長120mの前方後方円墳ということです。近くの上町台地上には、大阪湾を見下ろすように、帝塚山古墳や茶臼山古墳が築かれていますが、この古墳は河内平野(まだ、潟)に流れる大和川を見下ろすように築造されているのが特徴です。どちらもヤマト王権の首長クラスのものでなく、大王に従い、難波地域を預かるこの地の豪族の墳墓だと考えられています。
おっちゃんが歩道橋の上から墳頂をのぞき込んでいました。「下からはいつも見てるけど、上から見るのは初めてや。ちゃんと山になっとるんや」と感心していました。足が悪いようで杖をついていましたが、おっちゃんの背中越しに古墳の写真を撮ろうとおもったら、階段を下りていきました。
後円部。陸橋がちょうどクビレの位置
前方部。公園です。
後円部の手前が濠のあったところ
写真を撮っていたら反射でエライことに!
後円部の全体は入りきりません。ここにある石碑は「大阪農学校」の石碑です。ここらあたり、相当広い土地を占めていたようです。
この古墳は大阪夏の陣で徳川方の本陣が置かれ、その時に前方部が破壊された由。そこから御勝山という名前が起りました。どうりで江戸っぽい名前。さらに勝山という地名(行政地名)も御勝山から取ったのだという。
すぐ東に地蔵堂があります(13:26)。ここからが猪飼野。昔、この地蔵堂の西の際に平野川が流れていて、そこから東、小路との境までが猪飼野ということでした。
■地蔵堂は西俊徳地蔵尊です
この街道筋では有名ですね。俊徳丸もお参りしたか。お地蔵さまはやさしいお顔でした。
お堂の西側の道路が旧平野川です。埋め立てられています。老夫婦の向こうに旧い道標があります。通りすぎてから撮ると・・・・電柱の根元にほとんど埋まっていますが。いつも思うのですが、舗装するときに引き上げて、もう少し見えるようにならんものか?工事者は発注外でしょうけど、それくらいはしてえな、と言いたいところです。
■勝五山車庫
西俊徳地蔵尊の右手の道をはいるとあります。祭礼は10月20日です。
http://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000163.html
youtubeに囃子が出ていたので、消えるか知りませんが張っておきます。かっこいいです!いいなあ、見にいけばよかった。思わず聞き入ってしまい、涙がでそうになりました。踊りのおっちゃんをもっと写してえな。学校でダンスを教えるらしいですが、こんなのを教えたらどやねん。
http://www.youtube.com/watch?v=WGOLKXR1ABs
郷土愛あふれる文章です。名文です。
何かいわれのありそうなご神木。しめ縄が張ってあります。右の石碑は何でしょう。裏には人の名前が彫ってあるだけでした。
■東俊徳地蔵尊
西の地蔵堂からすぐ東にあります。こちらの地蔵さんのお顔はよく分かりませんでした。、前にある手水鉢には宝暦7年(1757年)の年号が刻んであるそうです。
東俊徳地蔵尊
■俊徳街道をするすると
まもなく(新)平野川を渡ります。渡る橋は俊徳橋。
橋のたもとにある家の旧い看板。私には関係ありません!
今里筋を渡る。このあたりにも旧い道標があるのだとか。
これは道標か?全然分かりません。しかし、大事に置いてあるところを見ると・・・何かありそう。
さすがにハングルで看板を1枚専有してます。
■この辺から、俊徳街道がよく分からなくなります
猪飼野の俊徳地蔵堂あたりからは諸説あり、紹介しているサイトによって違う。俊徳道駅地殻の三ノ瀬で十三街道と合流するというのは確からしいので、もっともらしいルートを地図に赤で示しました。
街道沿いは住宅がほとんどです。町工場や事務所もある。下の写真の工場は中はガランドで物置状態でした。
平野川分水を渡る。旧い家も「どや、文句あるか!」と主張しております。
内環状線を渡るとすぐに河内に入ります。
■太平寺
河内に入りました。今までまっすぐ歩いてきましたが、突き当たりました。ひとつ右の道をまっすぐ行くと完全な路地。これは街道とちがうなあ。
太平寺郵便局の次の角を北に曲がります。温泉の煙突を見ながら北行。
子守神社というのがありました。松長大神、楠長大神とはなんぞや?
http://ovw100bj.blog129.fc2.com/blog-entry-379.html
プライベートな神様のようです。こういうのもあるんやな。きちんと手入れがなされ気持ちのよい公園にお祀りされていました。
■お地蔵様街道
三ノ瀬の角に出る前と出た後の路地にお地蔵様2祠。と思っていたら、俊徳道駅前のちょっとした広場に大きなお地蔵様がいらっしゃった。俊徳街道沿道には、ほんとうにお地蔵様が多いです。
■俊徳道駅前
ここでコーヒー休憩。14:30なのでなんとか日暮れまでには大竹に着きそうです。気が緩んで20分ほど休憩しました。
出発してすぐ左手(北)に、いかにも旧街道らしいわき道があったので入ってみましたが、すぐに北から来る湾曲道に吸収され、再び府道にでました。菱屋西信号。
■十三街道接続
ここには俊徳道の説明板がありました。それによると、合流して歩いてきた北からの道が十三街道です。ここで合流するのか。
十三街道は深江で暗峠奈良街道から分かれ、足代経由で三ノ瀬で俊徳街道に接続すると思っていたので、十三街道の最初の部分も諸説あるようです。それらしい道を地図に赤で示しておきました。
より大きな地図で
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