2013年10月14日
これから平群に下ります。十三峠越えは龍田越えといわれた道の一つで竜田川に行くのが普通らしいですが、そんな人ばかりではなかったでしょう。考えてみると生駒山全体が峠みたいなもので、どこかから登って目的地に近い峠から降りていくのが普通だったのではないか?
「平群みち」 というのがあったのかどうか分かりませんが、平群に降りる道は当然あったと思います。
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外人さんに「ほな、さいなら」して下って行きます。
・・・・何か忘れた!先ほどのトンネルの少し横手に小さなトンネルがあって、本来の十三峠にいけるはずでしたが、すっかり忘れてしまいました。ほんとうは、そこで、十三街道の古い道を探して、そこを下ってもよいなと思っていましたが、時間も時間だし、このまま下りることにしました。また来ることになると思います。
この塀は特に写すこともないのですが、中をどうしようとしているのか?ちょっと嫌な感じです。
大和側の谷の最奥部にある池。上半分は水涸れして、イノシシか何かの土堀場、餌場になっていますが、下半分は水があります。生駒の大和側の最大の特徴は谷の最奥部まで人の手(農耕の手)が入っていることです。河内側とはまったく違います。
道路脇の尾根の横には古い道らしきものがありました。その下は畑になっているようですが、耕作しているかどうかは分かりません。その畑を縫って、池の上に出る昔の街道だったかも知れないし、ただの農作業や伐採の道だったかも分かりません。
道が大カーブする手前のところです。相当高いところまで畑があることになります。地図で確認すると、標高380mくらい。なお、十三峠は430mくらいです。
よく分からないのは、この道をおっちゃんが「わっお、わっお」いいながら走って登ってきたことです。ま、ランナーズハイもセルフコントロールも理解はしますが、ボクはやる気にはなりません。
あそこまで降りていくようです。近道らしき分岐もありましたが、大カーブどおりに降りていきます。
福貴畑の上の集落。河内の大竹にもありましたが、鋭角をなす元わらぶき屋根。そう雪が多いとは思えませんが。ちなみに丹波のボクの実家もわらぶき/トタンかぶせですが、角度はもっとなるい。
上の写真だけみると、エライ山の中の寒村(山の中はそうですが)と思いますが、この集落の少し下は大規模な畑が造成されています。寒村でなく、かなりのどかで豊かな山村のイメージです。
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上福貴畑にあった、杵築神社。福貴畑の氏神は分かりますが、なぜに杵築なのか?牛頭天王を祀っているということです。
http://www.kumagashi.com/spot/shrine03.html
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2011/02/post-f6a6.html
社殿右側は「観音堂」ですが、本尊の木造聖観音座像や、脇に祀られる巨大な木造深沙大将立像が有名らしい。こういうお堂は開けていいものなのかどうか?
http://www.town.heguri.nara.jp/web/kankou/bunkazai/bunkazai04-08.html
石段脇の祠に永禄11年(1568)の一観音・六地蔵の石仏がいらっしゃいました、暗いのでちょっとぶれています。
なかなか重厚なたたずまいのお宮さんです。貴重なものです。
神社の前の曲線路もすばらしい。
沿道の畑は菊が植えられています。花つくりが重要な産業になっているらしい。
しばらく人家が途絶えて、坂の下に再び集落が現れました。少し開けて里に下りてきた感じがします。しかし、まだ標高300mくらい。
フラワーロードが走っていて、交差します。その辻にはお地蔵様の祠がありました。厳重にブロックされている!
フラワーロードという名前ははよくつけたもので、春の福貴畑はまさに「桃源郷」らしいです。
このお地蔵さんの情報が見つかりません。
夕日に染まる福貴畑
まだまだ高いがあと3kmで平群に着くのか?
カーブの先にまた集落。先ほどのお地蔵さん辻から上がっていったところにある集落と尾根の向こうでつながっているようです。
東側の谷を開墾して花が植えられています。
しかし、畑が打ち捨てられた谷もある。観葉植物が野生化しています。谷筋は草ぼうぼう。福貴畑で検索していると、不動産売却情報がちょくちょく上がってきています、ちょっと嫌な感じがします。
しかし、こちらの谷は新たに開墾造成された感じもする。願わくば桃源郷をじっと維持していただきたい。桃源郷たるゆえんはまだ見ていないのですが。
集落が途切れ、福貴畑は過ぎたようです。
唐突に、これはなんや?ちょっと調べかけましたが、やめてしまいました。
だいぶん降りてきましたが、ここで標高220m。左手には住宅が迫ってきています。
右手の谷には奥まで畑がつくってある。
また墓地が現れました。おびただしい石仏と墓石で斜面を覆っています。
このあたりで道が二つに分かれました。若干考えましたが左手に。道はまっすぐ降りていき、人工的な感じがします。墓地かその北の団地や畑を造成したときにつけられたものでしょう。路面は荒れていてあまり通った気配がありません。歩くには右手の尾根道のほうがよいかも。歩いた直線道路の森にはサルがいました。
集落が現れてきました。北福貴という。やっと里に下りた感じがします。正面には夾竹桃が咲いていました。あちこちで桜の狂い咲きが報告されている暖かい日です。上の福貴畑でも桜が咲いていました。
鋭角の屋根
地蔵堂がありました。左から、山型二尊石仏、阿弥陀三尊石仏、地蔵石仏、舟型名号碑 永禄九年(1566)ですが、柱を避けてうまく撮れるもんだと別の意味で感心。
http://blog.goo.ne.jp/sekibutudaisuki/e/ab0c970d1acb3727617e870f14ba4b6e
http://www4.kcn.ne.jp/~sekibutu/1013.html【石仏の辻】
【石仏の辻】を見ていると、この道は石仏の道のようですが、竹薮の中にあったり、あまり省みられていないような写真が載っています。大丈夫なのか?大和には古いものがやたらとあり、素性不明のものなんぞ、という気があるのではないかと疑ったりしております。
うまく柱を避けるポジションがあったと思えば、少々ぼけてます。
何か古いお屋敷があります。
急坂に曲線の取り合わせ。
玄関先をあがってみますと、藤田家住宅。重文です。
http://www.town.heguri.nara.jp/web/kankou/bunkazai/bunkazai04-05.html
元禄年間(1688~1703)に建てられた萱葺入母屋造りで、第一次改修は18世紀後半、第二次改修は文 化4年(1807)、第三次改修は明治末年(1912)に実施されたことが分かっています。大和棟というらしい。第一次か改修後の姿に復元されているそうな。
塀の上からちょっとだけ失礼します。
日没です。平群では生駒に日が沈む。
川は竜田川。信貴山の虎、菊の花がデザインされています。マスコットは長屋くん、に左近くん。左近くんはよく知りません。長屋王の墓があるそうなので、後日行ってみましょう。
竜田川に生駒山
平群駅に到着しました。ただいま17:06.暗くなる前に降りられました。
平群の駅はイナカの駅らしく向こうのホームに行くにも線路を渡る仕掛けでした。イナカというのは、ここではほめ言葉です。