2013年10月14日
2013年10月17日
俊徳街道、それに引き続く十三街道、十三峠越の道を歩きます。一応、大阪アースダイバーに準拠はしています。すなわち、夕陽丘、四天王寺-(俊徳街道)-俊徳道-(十三街道)-若江-心合寺山古墳-大竹-神立-十三峠-平群のラインです。
俊徳街道は、俊徳丸の伝説(高安長者伝説)で、河内国・高安に住んでいた俊徳丸が、舞楽の修行のため、高安から四天王寺へ通った 道筋とされています。この 伝説から、謡曲の「弱法師」、説教節「しんとく丸」、人形浄瑠璃や歌舞伎の「攝州合邦辻」などが生まれたという。ボクは謡曲も、説経節も知りませんが、折 口信夫の「身毒丸」を読みました。しかし、これは俊徳丸伝説から仏教的・教義的な要素を取り払い、近世芸能の原始的なかたちを再現する意図で書かれている ので、シチュエーションは違います。大阪アースダイバーでは、美少年でアイドルだった俊徳丸(太陽の子)が継母の呪いで失明し、四天王寺で物乞いをして暮らしていたのを、蔭山長者の娘・乙姫(太陽の神に仕える巫女)が救いだした、と解説されています。ともかくもそういう曰くのある道を歩きます。
十三街道は、大和に通じる道で、古代からよく使われた道ですが、ボクの興味は、確か八尾歴史民俗資料館でみた古い十三峠の写真で、石垣のある里道で牛が荷車を 曳 いているものからでした。これがなかなか牧歌的。それが昔の六甲越の写真で、全く同じような風景だったので余計に興味を持ったという次第です。
それでは出発します。何が現れてくるか楽しみです。
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四天王寺から十三峠を越えて平群まであるきましたが、十三峠まではなんとお地蔵様の多いこと。まさに地蔵の道、民間信仰の道でした。
よい機会なので、地蔵菩薩を調べてみました。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/jizoubosatsu.htm
お地蔵様を特徴付けるのは、「錫杖」と「宝珠」ですね。しかし、地蔵菩薩像の古いものはは平安初期といわれ、当時は、錫杖は持っておりません。錫杖を持つようになったのは各地の悩める者、助けを求める者の救済にくまなく巡行されるようになったからでしょう。
お地蔵様は仏堂に安置されるより各地の寺院境内、村の入り口、峠、あぜ道、四辻、墓地などの野外に安置され、堂内安置より野山、路傍に多い。それだけに朽ち果てておられるのが多く、表情もはっきりしないのがあります。しかし、それがかえっていとおしく、お花を供えるのはもちろんのこと、前掛けや帽子をしておられるのが多いです。庶民信仰の表れでしょう。
阿弥陀さまのように正式なというかメジャーな仏像は常に遥か彼方の極楽浄土に居られるのに対し、地蔵菩薩は自分の身近に留まって、苦しみを助けていただけるとげ抜きやイボ取りから始まって、子育て、安産、田植え、延命など。身代わり、切られなど、場合によっては自己を犠牲にしてまで助けていただける。まことに八面六臂の活躍です。
それだけ、民衆にはつらさや苦しみがあったのでしょう。日々の暮らしの中で近くのお地蔵様におまいりし、花を供え、時には一念発起して、山の地蔵堂にお参りしたり、四天王寺にお参りする。それが俊徳街道、十三街道でした。大坂アースダイバーのいうディオニソスラインは理屈しか分かりませんでしたが、東西に走った、こういう生活の中の信仰のみちというのがその一端を表しているのだと思います。
十三峠以降、平群まではお地蔵さんはありましたが、墓地に集められているのを除くと、あの長い下りでもあまり気がつきませんでした。ボクが知らなかっただけかも分かりませんが、道が変わったか、路傍に人知れず埋まっているのが多いのでは、と思わざるを得ません。
大和側は、深い谷はあるにせよ尾根筋はなだらかで、谷の最奥部まで人の手が入って畑になっています。生活という以上に生産の場所だった。暗峠を越えたときも同じ感慨を持ちました。さらに、朝日があたる斜面ですね。このあたりが河内と違うところです。
河内は、低い山ではあるが生駒の急峻な谷と尾根が迫っていて、朝日はその山の上から出てきて、海に沈む。この環境の違いが人々のメンタリティにどんな影響を与えるのか?興味があります。
峠越えをしてみると、その昔、生駒を越えてみようと、必死のパッチで峠にたった最初の人間などは、「あれ、平地や!下の方に広い野原があるぞ、おまけにもう誰か住んでるぞ!」と驚嘆したのではないか?誰も彼もが大和を目指したのが分かるような気がしました。