■大坂始まりの地
八軒屋浜は上町台地北端の崖下で、ここから大坂が始まったと言ってもいいくらいである。ここは古代から渡辺津という港として栄え、江戸時代には船宿か家屋が8軒があったことから「八軒家浜」と呼ばれ、京(伏見)と大坂を結ぶ淀川舟運の要衝であった。
平安~鎌倉時代、京から舟で下ってきた熊野詣の一行は渡辺津、ここから南へ陸路を歩んだという。(2017/2/10)
■坐摩神社旧社地
石町。御祓筋のひとつ西の筋(内骨屋町筋)を少し入った、ビルに挟まれた所に坐摩神社旧社地があり、今は行宮になっている。ここが窪津王子(渡辺王子)跡と言われている。
そこはかつての淀川河口、もっと言えば河内湖の出入口で、上町台地の最北端。典型的な聖性地形である。上町台地の、そして大坂の基本的な地主神といってよいがイカスリ神が祀られていた。ここは河内王朝にとっては重要な聖地だった。
まさしく、大坂の始まりの地で、熊野詣の道がここから始まったのもうなずける。
熊野街道は御祓筋を南下するが、今回はひとつ西、上町台地の西端、崖っぷちにある内骨屋町筋を下っていくこととした。
(2017/2/10)
■朝日神明社跡
神崎町の南大江公園の南西端に、朝日神明社跡の石碑が建っていて、ここが坂口王子跡の案内板がある。赤い鳥居の狸坂大明神も見える。近くの榎木大明神も王子跡とされているが、要はよく分からないということである。(2017/2/10)
■高津宮比売古曽神社
空堀商店街を過ぎて行くと、ちょっとした高みに高津宮がある。高津宮は元々難波宮旧跡付近にあったと推定され、天正11年、秀吉の大阪城築城によって地主神の比売古曽神社もろとも当地に遷座させられた。「摂津志」は比売古曽神社を郡戸王子社に比定している。(2017/2/10)
■上之宮社の跡の石碑
熊野街道から東にかなり離れた所、上之宮高校を過ぎたあたりに上之宮社旧跡がある。四天王寺を守る七社の一つであるとされ、ここが上野王子の跡という。しかし、普通のマンションの玄関先で、王子者の雰囲気は全くない。大江神社に合祀されたとか、生野にあった熊野大神宮が上野王子祠の跡ともいわれ、久保神社に合祀されたという話もある。全くワカラナイということだろう。(2017/2/10)
■熊野第一王子
茶臼山の東隣に堀越神社がある。八軒屋浜にあった「窪津王子社」がいったん熊野神社に合祀され、さらにここ堀越神社に合祀されたという。立派な祠が建っていたが、やはり本来あった地に建ててほしいものだ。(2017/2/10)
■阿倍野王子神社
松虫交差点から旧道を行かずに府道を歩いてしまい、裏口からの参拝となった。阿倍野王子神社が阿倍野王子社とされていて、大阪市内に残る唯一の王子社という。案内板には第二王子社を名乗っていた。鳥居は西側の旧街道沿いであるが、その下に「阿倍王子旧跡」碑があるが、失念。この北には安倍晴明神社がある。
(2017/2/10)
■津守王子推定地不詳
正規の熊野街道は墨江小学校の西側の正面辺りを通っているが、その東側の小道を歩いた。王子社は墨江小学校の敷地にあったと伝わるが、津守廃寺跡の説明板だけで王子との関係の説明はない。
南海高野線沢之町駅南東の止止呂支比売命神社に津守王子が合祀されたというが、それを示すものは見当たらない。
(2017/2/10)
■王子ヶ飢公園
大阪刑務所の西北角を西に入るといきなり境王子跡の石碑が現れた。この石碑は熊野本宮大社の鎮座する本宮町寄贈のものである。熊野街道の位置や境王子本来の場所は定かではないが、堺市史では王子はここだと比定している。
現在の熊野古道ルートは仁徳陵から西にワープするが、最初は熊野街道は、方違神社から南下していたが、堺の発展により大小路あたりが中心なり、そこが街道の始発点になった。(2017/2/12)
■大鳥美波比神社
大鳥大社の摂社として境内に大鳥美波比神社が祀られていて、ここに大鳥居王子社が合祀とされている。その旧跡地が鳳東町のNTTの東約200だったというので見にはいったがコンビニで休憩しただけだった。(2017/2/12)
■うるさい路地の王子社跡
和泉市に入り聖神社の大鳥居を過ぎたところで東に狭い路地を入る。ピンポンパンポンとアラームが鳴り響き、左手にある看板には、不審者云々・・・というのが大書がある。来訪者をはなから不審者とみているようで、気分が悪い。
(2017/2/12)
■放光池一号公園西
この公園西の四つ辻に平松王子の標柱があった。王子跡はここから北北西70mとあったので、見に行ったが単に団地の駐車場だった。しかし跡形はなくとも考証して位置を明示してくれるだけありがたいと思う。
王子社は伯太神社に合祀されている。
(2017/2/12)
■和泉府中の槙尾川柳田橋手前
信田山自衛隊駐屯地を過ぎ、和泉府中の槙尾川を渡る手前に子安地蔵の祠と井ノ口王子碑が建っている。本来の井ノ口王子神社はこの石碑のある一角から道を隔てた北側にあったが、明治の合祀で消え、今はその痕跡すらないという。現在は泉井上神社に合祀されている。(2017/2/12)
■岸和田に1つの王子跡
岸和田市に入って久米田駅の西に池田王子跡地がある。周辺は古い街、田畑、駐車場であっるが、路地路地には案内石柱が建っており、地元の皆さんが保全に務められているようだ。跡地は民家の庭のようなところで訪問は遠慮した。
近くにあった菅原神社に合祀され、更に丸ごと夜疑神社に合祀されている。
(2017/2/12)
■王子跡候補地は工場敷地の中
津田川を渡ると貝塚市である。工場敷地の中なので写真はなし。明治42年に阿理莫神社に合祀されたという。阿理莫は「ありまか」と読むらしい。そんな字ありまっか?(2017/2/16)
■鞍持王子伝承地は夢のまた夢
和泉砂川駅の周辺にさまざまな伝承地がありますが、その痕跡はさっぱりです。貝塚というところは関心もないのか?
写真は伝承地のひとつ、正福寺東の地蔵堂付近。この辺にかつて熊野神社があり、そこが鞍持王子跡という伝承もある。
(2017/2/16)
■南近義神社
ここに鞍持王子と近木王子が合祀されているという。なんか合祀ばかりで厄介者を片付けた感、ありあり。世界遺産に関係ないとなると、無関心も甚だしい。
(2017/2/16)
■貝田会館
泉佐野に入っても王子跡地不詳は続く。貝田会館の地が加支多神社の旧地で、そこが貝田王子(鶴原王子とも)跡という。そのサインはまったくない。 (2017/2/16)
■立派な碑であるが不詳な推定地
和泉佐野市役所近くまで来た。いかにも王子跡らしいが、実は場所はよく分からないらしい。王子社は春日神社に合祀されている。(2017/2/16)
■王子碑は個人宅の庭
イズミモータースのあたりが籾井(樫井)王子跡という。石碑は個人宅にあるのできちんと申し込めば見せてくださるようだ。近くの日枝神社に合祀されているが、そこは王子社のゆかりは感じられない。(2017/2/16)
■開放的な王子社跡
樫井川を渡ると泉南市に入る。厩戸王子は信達大苗代郵便局を越えて次の信号)を北に入る、街道から離れたところで、多分、樫井古戦場碑あたりから古道が続いていたように思われる。あたりは広々とした田畑で清々しい。やっとホッとした気分になれる王子社跡だった。
泉南市の文化財埋蔵センターの前が一岡神社で、厩戸王子社が合祀されている。
(2017/2/16)
■信達宿の外れ
見どころも多い信達宿を通り、大鳥居の信号を過ぎて、林昌寺への分岐の右手にあった。しかし、公式には王子跡とは確認されておらず何のサインもない。一ノ瀬王子はあったことは確かだが、次の長岡王子とは同時期には存在していないらしい。(2017/6/13)
■長岡王子の位置はワカラナイ
この王子跡は確定されておらず、地元の伝承頼みになっていて諸説あるようだ。
(1)長岡王子は一ノ瀬王子の別称
(2)岡中を通る阪和線のガード下
(3)和泉鳥取駅の波太神社遙拝鳥居
(4)岡中の大樟の場所の鎮守社
(5)馬頭観音地蔵尊から南西の峠
など。岡中の街道筋の大樟が立派だったので、この写真を挙げておいた。
(2017/2/16)
■琵琶ヶ岸懸を越してゆく
波太神社伏拝鳥居から山中川沿いに古道が走っている。途中、雨山直下に琵琶ヶ岸懸(びわがけ)の難所があり、相当厳しいので、府道を歩いた。府道から北に入った公園のそばに石碑がたっていた。私製の道標が建っていた。ここは阪南市だが、市民の関心も高いようだ。(2017/2/16)
■今も足神さんとして親しまれる
阪南市コミュニティバス停に「王子原」というのがあり、2分ほど歩くと馬目王子跡の石碑がある。馬目王子は山中神社(現、地福寺)に合祀され、山中神社が鳥取神社に合祀され、さらに波太神社の摂社になった。しかし、いまでも山中神社に石祠があり、丁重に祀られていた。地元では足神さんとしても親しまれている。
(2017/2/16)