■熊野街道を守ろう
滝畑にて。紀伊路を歩いてみようと思った理由の一つがこの看板である。葛城二十八宿経塚巡行の折に何回か見て、そうかここは熊野街道だった、ということで、葛城の巡行が終わって、その気になったのだった。
■紀伊国に入って最初の王子社
ここは葛城修験の行所、滝畑王子権現跡でもある。和歌山県の案内看板によると、「江戸時代には、道沿いに周囲三十六間の境内があり、王子権現社が祀られていたようだが、明治時代に春日神社に合祀され、旧跡も鉄道の敷設によって無くなりました。」とある。この春日神社は湯谷の西の神社で、明治42年に山口王子社など山口村各地の神社を合祀したのを機に、山口神社と改称した神社である。
(2017/2/22)
紀伊路は峠も多くなるので、王子以外に峠風景もピックアップしていこう。
■雄ノ山口の湯屋
雄ノ山峠を下って湯屋谷に降りると道は二つに分かれ左側すぐにある。湯屋は熊野参詣人のために設けられた接待所・救護所であった。その湯屋が地名になったのか。
山口王子は中山王子(王子権現社)と合わせて山口神社に合祀されている。山口神社は下の写真参照。(2017/2/22)
■河岸の高みに避難してきた
紀の川氾濫原から見て山側のちょっとした高みに建っている。川辺王子社は元々は八王子社で、今は力侍神社に合祀されている。その力侍神社は初め川辺の神波にあって、それがこの地、八王子社の境内に移され、さらに川辺王子社もろとも現在の力侍神社の地に遷座したという。
(2017/2/22)
■定番のブルーサインがない
ここは古くからありそうな家がまばらに建っている集落で、楠本といい、古名が中村と言ったらしい。それで中村王子。畑の縁に看板が建っているだけの王子跡で定番のブルーサインがない。そのスペースもなかったのか?案内板の説明も通りいっぺんでよく分からない。
川辺王子とともに力侍神社に合祀というが、力侍神社にはその明示もなかった。(2017/2/22)
■大迂回の先にある王子社
川辺橋を渡り、川辺の渡し場の案内を見て、大和街道(多分堤防道)を東に向かう。吐前王子は大迂回した先端にある。なんで?と思うが、理由はよく分からない。 大和街道は車さえ少なかったら、味わい深い街道なのだが。
この看板の北東の高みに王子権現があったらしいが、そこは自然堤防に続く高みだったのか?(2017/2/22)
■昔は村の西七町小栗街道にあり
布施屋の村の中に戻ってきた。案内板によると、中世にはこの王子はなく江戸時代初頭には2つの和佐王子があり、その一つが、熊野古道沿いの川端にあってこの地に移され、川端王子となったと書いてある。その旧地は村の西七丁の小栗街道沿いだとか。それは今のJR踏切辺りだという。小栗街道の経路も違ったようだ。
(2017/2/22)
■矢田峠を登る前
寛文年間(1661〜1672)に紀州藩主徳川頼宣が、2つあった和佐王子のココを和佐王子と定めた。ややこしいことに、「紀州続風土記」では川端王子を和佐王子と称し、ここは、地名から坂本王子と言ったが、それはちょっと無理と案内板には書いてある。今は和佐王子社は高積神社に合祀されている。(2017/2/22)
■秀吉の紀州攻めで衰退、後に再建
ここから農道で明王寺に。ミカン山、梅林などを愛でつつ峠をゆったり下り、平尾で元の古道に合流した。秀吉は再建したが、明治の神仏分離という宗教改革(という名の弾圧)は津々浦々の神々をやみくもに合祀したり、修験道を弾圧したり、秀吉の紀州攻め以上の害をもたらしたといえそうだ。合祀先の都麻津比売神社は西のすぐ近くの丘の上なので行ってみた。(2017/2/22)
■2つある奈久智王子社跡
伊太祁曽神社にお参りしてから須佐の奈久智王子に向かう。ハイアースとアース蚊取り看板の横を山側に上がっていく。新しい祠の中を覗いてみるとピカピカの神様が安置されていた。
もう一つの奈久智王子は薬勝寺の大池の辺りの分岐から左の古道を行きこんもりとした丘の地蔵さんの奥に小祠があった。ここもピカピカの祠である。紀伊続風土記では、これを奈久智王子に比定している。(2017/2/27)
■松坂王子を見て汐見坂を越える
多田の集落を突っ切り、まっすぐ南下して且来の光明寺も過ぎて県道136と出会う所に松坂王子跡の祠がある。案内板によると、寛文の頃すでに且来八幡宮に合祀されたようだ。江戸期には和歌山城下から、紀三井寺−黒江−藤白のルートに改められ、祓戸王子以北の王子は衰退したと書いてあった。(2017/2/27)
■王子跡を探してウロウロ
事前の調査がまずかったか?ウロウロした。サイトによって表現が違う?総合すると、下記の春日神社参道から登ったところにあるのが寛保年間に紀州藩命で建てられた石碑、春日神社の北尾根にあるのが新しい碑で「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録されたのを機に平成15年に春日神社境内社として、熊野古道を愛する方々の寄付により建てられたものらしい。元々は春日山の西麓にあったという。その故地は地図のAあたりなのか?やっかいな話である。まあ、市民の寄付による石碑を正規なものとしてアップしておこう。
春日神社では時節柄お雛様の展示があった。ちょっとゆっくり。
(2017/2/27)
■もうちょっとなんとかならんか
紀伊続風土記に「字ボダイというところがあって、熊野王子の廃跡ならむ」とあって、早い時期に廃されたらしい、と案内板に書いてあった。そのボダイの場所もよく分からないらしい。ならば、なぜここが菩提坊王子なんだろうか?ワカラン。(2017/2/27)
■昔なら熊野一大鳥居の真正面
熊野一の鳥居標柱から50mほど南下した分岐から大回りして山手の小道に入る。何のことはない鳥居標柱のちょうど上、如来痔のちょうど上の尾根先に石碑が建っていた。祓戸というかぎりは不浄を払い、心と身を清めた場所だったのだろう。次の王子は五体王子・藤白王子であり、いよいよそこから藤白坂の峠越だ。
石碑までの山道には四国八十八箇所霊場を模したのだろう、そのお寺にまつわる石仏多数が配置されていた。
(2017/2/27)
■峠越を控えて身も心も引き締める
藤代王子は九十九王子の中でも特に格式が高いというのは頭では分かるが、それ以上に、これから本格的な峠越えを控え、特に気を引き締めるというのが大きいのでは。大阪から歩いてきて特にそう思う。これから違う世界に入るのだと。この王子社は熊野三所権現の本地仏三体を祀っている。(右から)阿弥陀如来・薬師如来・千手観音であるが、見ていない。
サア登るぞ!(2017/2/27)
■地蔵峰寺
藤白坂を淡々と登り40分で地蔵峰寺に着いた。本堂にも藤代塔下王子の提灯がぶら下がっているが、王子跡はその奥だ。現在は麓の橘本神社に合祀されている。
先に御所の芝の絶景を見に行って、地蔵峰寺のお地蔵さんを見落とした。3m以上あるという。(2017/2/27)
■坂を降って橘の里 阿弥陀寺
古道の降りは旧坂で、あるサイトには「畑の中に落ちて行く」と表現されていた。道標は完備しているのでホイホイと降りてゆく。
橘本王子跡は阿弥陀寺境内にある。何かの法要中だったので写真だけ撮ってそそくさと退去した。
案内板には「紀伊続風土記には村の北に王子跡があって、地元民は橘王子と呼んだ」と書いてあった。(2017/2/27)
■蜜柑と菓子の神様橘本神社
(旧)橘本土橋を渡って南の市壺川の谷に入っていくと、橘本神社があって、そこに所坂王子跡がある。橘本神社には前の橘本王子、所坂王子、次の山路(一壺)王子が合祀されている。石段を上がった広場に王子跡の案内があった。
橘本神社は、タジマモリが常世の国から橘の木を持ち帰ったという話から、蜜柑と菓子の神様として全国のみかん、菓子業者の信仰が篤い。(2017/2/27)
■山路王子神社
ここは一壷王子の跡である。かつては山路王子とか市坪王子とか沓掛王子とも言われていた。
この神社は子どもの泣き相撲で有名なところである。さらに、脇殿に興味深い神社多数が祀られている。島姫神社(市杵島姫神柱)、里神神社、石神様、里神社、妙見社 地祭神社、道祖神など。土地にまつわる神々が丁重に祀られている。
(2017/2/27)
山路王子神社から約50分で拝ノ峠。たまらず10分休憩
■拝ノ峠の先の蕪坂峠に王子社
拝ノ峠を越えてもまだ峠があった。道は平坦だったが・・その蕪坂峠の直下に蕪坂塔下王子がある。案内板を見ると、紀伊国名所図絵では、蕪坂の上に蕪坂王子社があると記されている。
祠は平成元年に再建されたというが、ちょっと荒れている。今は南麓の宮原神社に合祀されている。(2017/2/27)
急降下の後に山口王子跡
蕪坂を320mから8mまで急降下。しかし見所も多数、道も良好で快適に降る。
降った先に山口王子。現在は宮原神社に合祀されているが、平成3年に地元の方で祠を再建された。明治の神社合祀よりよっぽど良いことをされている。さらに、有田市水道局が地下40mから組み上げている水場があり、四阿もあるので休憩にはもってこいである。(2017/2/27)