2009年6月24日
尾藤峠が正式名かどうか分かりません。近くに住むものにとっては「峠」といえばココのことでしたから。全英オープンをThe Openというが如し・・・
丹波/丹後の国境ですが、生活の結びつきは丹後の方が強く、婚姻なども丹後のほうが多かったんではないか?当家の親戚もほとんど丹後でした。高校も大江高校のほうが圧倒的に近いにも関わらずエッチラオッチラ綾部まで行っていた。
久しぶりに峠越えで河守まで歩いた記録です。
丹波側です。いかにも神奈備のような山ですが、本来の神奈備山かどうかは知りません。山頂近くにかなりの祠があって、子供のころは祭もしていました。きれいに掃き清めて餅をそなえて、その御供さんとお神酒をいただいたりしました。子供のくせに・・・
九社神社。遊び場でした。遊び場でしかなかったので、由緒など全然分かりません。一応調べてみると、御祭神は伊装諾尊(いざなぎ)、伊装再尊(いざなみ)。末社に八幡神社(誉田別尊)、稲荷神社(倉稲魂命;うかのみたまのみこと)、山乃神神社(大山祇神)、愛宕神社(迦倶槌神)とあります。確かにお社はそのとおり。
きゅうしゃじんじゃ でなく くしゃじんじゃ、と読みますが、舞鶴(旧加佐郡)には九社明神という神社が多数あり、そことの関連も思ったりします。くしゃ の元は クシフル、カシハラ、カサという意見もあります。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/kasagun3.htm
地蔵堂です。峠の下にはだいたいあるもんで。七夕のときにはお祭りがあって、お菓子をくれるので毎年参加しましたが、大体は天気がよくなかった。地蔵盆は記憶にありません。
もう一つの峠路。千原峠と言っていました。子供のころの探検路で、まっすぐいくと峠になり、どこをどう通ったか尾根伝いに降りていくと大きな猪垣というか、家一軒ほどの囲がしてありました。まさか飼っているんでなくて囮の囲だと思いましたが。
また、子供のころおばあさんに連れられてこの峠を越えたことがあります。河守に行った帰りだったと思いますが、路はあるものの笹や草が生い茂り、難儀したことがあります。夕方だったので心細く、そこで「ここではよーキツネにだまされたもんやで・・・、向こうの方に赤い灯がともると気いつけな」なんていうので余計に心細かった。千原から山越えして家に帰ろうとする話は今でも夢にでてきます。その都度途中で話が変わって、全然違うところを歩いたり電車に乗ったりする話に切り替わりますが・・・・
峠の手前。左手にはウチの畑があって菜種を作っていました。右手も今は桧が植えてありますが、子供のころは畑があって、何を作っていたか?よく手伝いに来たところです。ただ、遊んでいただけかもしれません。
峠です。ここから先は大江町。当時は加佐郡、今は福知山市です。舗装してあるところがすごい!
峠を越えました。下りです。丹波側は標高が高いのFで、こちら丹後側はかなり深い谷になっています。左手は今は土砂捨て場になっていますが、当時は谷道があって、そこが昔の峠道だったと思います。
正面の山の谷になったところは確か萱刈り場だったような気がする。その一部は村の女性が借りていてゴボウを作っていた記憶があります。一度連れて行ってもらったことがある。収穫したものは分けるなどして残ったものは保存しておき女同士の集まりのときのご馳走として食べていたものと思います。
下ります。
下りといってもほとんど平坦で、だらだらと下る。
由良川の堤防が見えてきました。ここで尾藤も終わりです。
この付近、人家は高石垣仕様になっています。高さ4mほどあるでしょうか。昔から洪水が多かったためです。
こちらの家もそうです。
由良川水害の歴史を調べると、(下表引用先)
http://www.kkr.mlit.go.jp/fukuchiyama/river/shiryoukan/kouzui_kiroku.html
惨憺たるものです。
発生年月日 | 原因 |
総雨量 mm |
最高水位 m |
最大
流量 |
|
1896.8.31-9.1 (明治29) |
京都府下で死者341人、負傷者312人、行方不明18人、流失1,721戸そのほとんどが由良川流域 | ||||
1907.8.26 (明治40) |
死者36人、負傷者192人 流失・全壊937戸半壊426戸、床上浸水5,204戸、床下浸水5,890戸 |
||||
1930.8.1 (昭和5) |
流失4戸、全壊4戸、床上浸水2,720戸、床下浸水702戸 | ||||
1945.10.8-10.11 (昭和20) |
阿久根 台風20号 |
死者3人、負傷者2人 家屋流失34戸、全壊14戸、半壊63戸、床上浸水4,748戸、床下浸水335戸 |
|||
1953.9.25 (昭和28) |
台風13号 | 360.2 | 7.80 | 6,500 | 災害救助法適用;死者36人、負傷者893人、行方不明1人、家屋流失205戸、全壊1,178戸、半壊1,432戸、床上浸水5,307戸、床下浸水2,458戸 |
1959.9.26 (昭和34) |
伊勢湾 台風15号 |
247.6 | 7.10 | 4,384 | 災害救助法適用;死者2人、負傷者28人、行方不明1人、家屋流失24戸、全壊19戸、半壊214戸、床上浸水4,455戸、床下浸水2,450戸 |
1961.10.28 (昭和36) |
台風26号 | 234.8 | 5.33 | 2,402 | 災害救助法適用;床上浸水767戸、床下浸水1,540戸、住宅被害176戸 |
1965.9.17 (昭和40) |
前線 | 473.6 | 5.41 | 2,833 | 家屋全壊4戸、半壊48戸、損壊327戸、床上浸水411戸、浸水1,540戸 |
1972.9.16 (昭和47) |
台風20号 | 188.1 | 6.15 | 4,063 | 負傷者5人、家屋全壊4戸、半壊33戸、床上浸水527戸、床下浸水1,024戸 |
1982.8.1 (昭和57) |
台風10号 | 188.3 | 5.45 | 3,636 | 床上浸水40戸、床下浸水65戸 |
1983.9.28 (昭和58) |
台風10号 | 245.6 | 5.57 | 3,608 | 床上浸水23戸、床下浸水49戸 |
1990.9.20 (平成2) |
台風19号 | 250.3 | 4.64 | 2,469 | 床下浸水62戸(非住家含む) |
1995.5.12 (平成7) |
低気圧 | 177.1 | 4.23 | 2,242 | 床下浸水3戸 |
1998.9.22 (平成10) |
台風7号 | 144.9 | 4.49 | 2,178 | 床下浸水5(内4戸は非住家) |
1999.6.30 (平成11) |
梅雨前線 | 121.5 | 4.57 | 2,203 | 床下浸水1戸、床上浸水1戸 |
2004.10.20 (平成16) |
台風23号 | 288.7 | 7.55 | 5,285 |
災害救助法適用 死者5人、全壊17戸、床上浸水1,251戸、床下浸水418戸 |
2004年の水害は、このもっと下流でバスが立ち往生し天井に37人が取り残され、一晩耐え忍んだということで有名になりましたあの水害です。バスの件く らいしか世間には知られていませんが、その裏には大きな災害があったのです。あの時も上流の大野ダムがあふれるギリギリまで放流しなかったのでバスも助 かった!
被害の詳細は;http://www.kkr.mlit.go.jp/fukuchiyama/river/shashin/pdf/shashin.pdf
由良川の洪水については、
この堤防は2009年現在建設進行中です。それまで自然堤防に護岸をつけたくらいのものしかなかった。
昭和28年の洪水は記憶にありませんが、京都では巨椋池が復元したというあの大水害です。小学校に入るか入らない頃、父親に連れられて自転車で河守にいくとき、阿良須のあたりを通っていると「水害でここまで水が来たんじゃ」と道路沿いの民家の壁をさして教えてくれました。その後、ここを通る度に確認していました。土壁の上の方にくっきりと吃水のあとがついていたのを今でも覚えています。
昭和34年の伊勢湾台風の水害は記憶にあります。峠を越えてこの下流の有路まで見にいきました。谷の奥まで水が来ていたので、途中、畑の土手をよじ登って迂回したのを覚えています。大雲橋は流されてコンクリの橋ゲタしかなかった。通常は数十メートルくらいの川幅ですが、少し水が引いた時期ではあるものの、対岸まで400~500m全部が川になっていて、家が流されて行きました。ガキどももさすがに無言で呆然と見つめるだけ。家に帰るまでヘラズ口をたたくものもいませんでした。
上流の大野ダムは1961年(昭和36年)に完成。1941年の計画構想から紆余曲折があって実に20年という長い年月を経ての完成です。それ以後、確かに水害は減りました。しかし2004年再発。現在の堤防工事は2004年以前に計画はされていると思いますが、間に合わなかった。
2013年現在、新たな「由良川水系河川整備計画」が策定されています。
この文章を書いていて(2013年8月)、Googlemapを見ていたら、あれれ、橋が記載されていない。堤防の完成に伴い、新道ができてこの橋は廃止されたようです。残念!
蓼原についてはここが詳しい。崇神天皇時代の激戦があったらしいところ。http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/tadehara.html
ここを昔は北丹鉄道が走っていて、蓼原という駅がありました。小学校に上がるか上がらないかのころ一度乗ったことがあります。下記に懐かしの北丹鉄道の写真サイトをリンクしておきますが、こんな立派な車両じゃなかったような。模型と同じとは言いませんが、軽便鉄道だった。1971年3月休止。そのまま廃止となりましたが、この何年か前にも乗った記憶がある。楽しかったなあ。
さすがに力作;http://www.geocities.jp/okazu1945/hokutan/hokutan.htm
http://teramatiisejosai.travel.coocan.jp/hokutan.html
http://besankosyashin.blog56.fc2.com/blog-entry-397.html
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/obanrr/hokutan.htm
模型
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130729-00010000-rtn-l26.view-000
http://blogs.yahoo.co.jp/sinpapa63/GALLERY/show_image.html?id=53359982&no=0
由良川を渡りました。まだ蓼原ですが、こちらに寄ってください。何があるかは検索してください。
河守についてはこちらが詳しい。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/koomori.html
「古代の川守郷の中心地で・・・」とありますが、ボクが子供の頃まではそうだったような感じがしています。
《大江町風土記2》「にってんさんのおとも」というのが載っていますが、これは絶品ではないでしょうか。「大江町風土記2」これはどういうものか読んでみたい気がします。
宮津街道ですが、北東に向かってどんどん登っていって、小学校あたりから下りになります。関といったか?そこが河守の外れで、そこまで下りでした。これも小学校に上がった頃、自転車に乗っていて下り坂でひっくり返りました。すねに土がめり込んで(当時は当然地道)、痛くて痛くて大泣きした記憶があります。医者に連れて行ってもらい、やっと一息。母親にナシを買ってもらい、やっと機嫌が治った。今でもナシを食べる度に思い出します。
波美方面を見ています。昔、バイクであそこもうろうろしたことがある。なかなか落ち着ける場所でした。
家に近いこともあって、異国ながらこちらのほうに親近感があります。河守周辺は見どころもたくさんあり、行ってみたいところがあります。じっくり歩いてみようと思いますがエリアが広いので・・・・
(終わり)
なお、地図はありません。Googlemapが田舎は手抜きをするようで、白紙に一本道が通っているようなありさまで、とても地図といえるような代物ではありませんので。