古い写真と地図を整理していてフと思ったこと・・・
人間の記憶は何を契機に記憶されるんだろうか?昔の山登りでも、写真や地図があれば記憶が辿れやすいことはあるが、それがなくても鮮明に覚えていることがあるし、まったく忘れてしまったこともある。写真は大雪山なのだが、ここを歩いたのは覚えているか、この景色は忘却の彼方!そんなもんでしょう。
古い地図と写真を見ながら記憶に残っていること、思い出したことを書いてみる。記憶がなにによってなされるか?少しは分かるかもしれない。
★印のある写真・地図はクリックすれば詳細ページに移行します。
なお、写真は国土地理院5万図、または1/25000図を元に必要箇所を切出し、400×300pic以下に縮小しています。
1967年5月
逆瀬川の連続堰堤を見ながら登って焼石が原(今は死語)にテントを張った。どうも体調不良が続く。河原のテントサイトではクイナが鳴いていたのを覚えている。翌日も体調が良くなく、六甲最高峰から有馬に降りてそこで撤退し、悔しい思いをした。
1967年6月17-18日
夏合宿前の調整の山行。紀見峠のどこかにテントを張ったがちょっとした高台だった。この日も調子が悪く食欲なし。ルートに有名な峠は多数あるが、覚えているのは、行者杉と久留野峠。久留野峠は笹原の中の鞍部で今よりもう少し木々の生え込みがあった。涼しい風が吹いてきて生き返った気分になったのを覚えている。下山後富田林の先輩の家によんでもらった。
1967年7~8月
石狩岳からトムラウシ経由大雪山へ縦走した。印象順でいうと、1)トムラウシ、2)平ヶ岳、3)石狩岳。残念ながら大雪主峰旭岳の印象はコマクサだけ、初日に登ったらしいニペソツは全く覚えていない。元来、日高縦走のはずだったが、ヒグマ事故があって入山を自重し、そのフラストレーションがあったのかも(今もある)。
1967年11月1~6日
由良川源流核心部の溯行と三国岳、オグロ坂、八丁平、峰床山を組み合わせた、芦生+北山ゴールデンコース。
この山行でボクの以後の山行を決めたといってもいいくらいのエキサイティングな山行だった。由良川源流溯行はもちろん印象が強かったが、三国岳北峰にリヤカーの残骸があったのにはびっくりした。
1967年12月10日
塩屋6時発、菊水の山頂直下にヤマツツジが咲いていた。市ガ原までは快調だったが、摩耶の登りでヒダル神に取り憑かれ動けなくなった。ここでだいぶん抜かれた。ほうほうの体で茶店まではい上がりメシを食うとすっかり回復した。これにより、スイーパーと一緒に歩くことになり、宝塚についたら真っ暗だった。よく考えたら、パンやジュースを買おうにも日曜日の朝早くから店は開いてない!
2年目はちゃんと学習して、宝塚(塩尾寺)は明るい内に着いた。
1968年3月17~18日
高雄の神護寺の前、石段を通ったのは覚えている。テントは谷でなく尾根筋の横だった。
雪が残っていて夜はクソ寒かった。こんな寒いのによう来るわ!水尾経由で降りたのは覚えているが、あとは全然。
1968年4月27日-5月1日
白鬚岳という名は記憶にあるが、トレーニングだったので、景色を楽しむどころではなかった。P1319を越えたあたりで足がつった。尾根は踏み跡はあったがササがびっしり生えていてびしょ濡れになったからだろう。しかし、山行に対する自信は持てるようになった。
1968年5月
実をいうとこの年かどうか分からないが池木屋山を南下し地池越まで行ったはず。父ヶ谷越だったかも。台高主稜から安全に下降できる谷はココからと先輩から聴いていたので。
下降した谷の、トチノキかカツラかの大木の横でテントを張った記憶がある(後年、冬に再訪、泊まったが夏シュラフでは寒い!)。周囲は苔むした枯木が散乱。帰りに山之公でシャクナゲを見た。
S43/1版のニッチ地図がでてきた。下降したのはおそらく茸股谷だろう。304ピークの南水場に横線があるので当初、アワホラ谷下降かと思ったが、その可能性は薄い。
1968年6月1日
箕面で確かにモミジの天ぷらがあった、箕面の猿は狂暴だった、滝をみた。このくらいしか覚えていない。記憶は山行とは別物やね。
トトロミを通ったことがあって、「甲山が見えるぞ」とわめいた人がいた。これは別の機会かなあ。
1968年6月15~17日
昨年は有馬で撤退したのでリベンジ。今年はちゃんと有馬から再度六甲に登っていた。シュラインロードを通ってるんやね。
全コース何事もなく歩いたということだけで、途中の景色や様子は全く覚えていない。
1968年7月11~13日
これぞ京都北山なり、というようなコースだ。地図の右が切れているが魚谷峠を越したので、貴船に出たか雲が畑に出たかどちらかだ。
真弓のテントサイトではホタルが乱舞したのを強烈に覚えている。しかし、峠の景色は忘れたなあ。再度訪問しなければ・・・・
1968年7月17~29日
和賀岳を越えた所までは行ったが、雨、強風、霧でブッシュは無理と4日停滞、いろんなトラブルありで撤退。
後半の秋田駒-乳頭山-岩手山手前までは絶好の登山日和だったが、台風余波の強風で岩手山はまた撤退。さんざんな山行だったが、強烈な体験ほど得るものも多かった。
1968年10月?日
森本次男さんの「京都北山と丹波高原」を見ていて「近江坂」や「明王の禿」を知った。明王の禿の背後の山稜は草原だという。確かにガレとススキ平原の対照的な取り合わせだった。四季を通じて楽しめるのではないか。今は人気のコースだという。
ボクはトレイル志向ではなく、若狭越を調べてみたい気がしている。
1968年11月1〜6日
昨年の由良川源流遡行以来、若丹国境の峠越や尾根は最も関心のある地域だ(今も)。ボクは由良川下流域の出身でイナカの家から東を望むと、そのずっと先に丹波高原、由良川源流があるのだ。 ちょうど森本次男さんの「京都北山と丹波高原」のガイドブックに触発されて企画した山行だった。充実した山行だった割には覚えていないところも多いのだが・・・それは「再訪して確かめよ」と促されているのだと感じている。
1969年4月26~30日
残念ながら全然覚えていない(トレーニング山行というのもある)。しかし、池木屋山を通ったのは覚えていた。通常、明神平で泊まって下山だったので、今回も。明神平はトレーニング基地やね。
1969年6月 2名
夏合宿の笈岳−白山主稜の下見。結論は「無理」(笈岳は撤退●)。大笠山直下の草付きの沢源頭部はなかなかよかった。
桂の境川を少し遡行すると、大きなスノーブリッジがあってヒヤヒヤしながらしばし戯れる。桂では現地の人に泊めてもらったようだ。
1969年6月
よさそうなコースなのだが、申し訳ない が全く覚えていない。合宿のための調整で1泊、どこに泊まったかも覚えていない。
1969年7月
これも合宿直前の調整山行なのだが覚えていない。
老の坂から入ったようだが、全く記憶になし。これより以前に、金蔵寺、善峰寺とか行った記憶があり、帰りにダンプの兄ちゃんがわざわざクルマを停めて「旅してるんか、ええのう」なんて声をかけられた記憶がある。それも海印寺だったような気がする。2つがごっちゃになっているのかもしれない。
1969年7月24日-8月1日
白山は雨、風、霧で真っ白。文字通り白山で何も見えない山だった。
記憶に残るのは、前半の蓮如岩の峠越、沢登り、沢下り。キスリング装備でも通過できたので「適度」であったかもしれない。
1969年8月13〜20日
長い間あたためてきた越後三山(八海山はパスしたので越後二山)と平ヶ岳に行くことができた。大水上山からは踏み跡があり、ブッシュもあったけれどもそうひどいものではなかった。
お天気にも恵まれすばらしい山行になった。企画者としても実行者としても会心の山行になった。(4名)
1969年9月23-24日
いろんなコースで何度も行っているので、いつどのコースかというのが分からなくなった。代表として今回のコースを入れておこう。
今回だけではないが、夜鷹山の尾根中腹をまいて水路ができていて、それに沿って歩いた記憶がある。それと、砥峰高原の牧場の広大な(茫漠たる)景色は大いに記憶に残っている。
1969年10月29日-11月1日
森本次男さんの「京都北山と丹波高原」の記事「近江坂」に触発された。本来なら近江坂から大御影山-三方に続く長大な尾根を歩くべきなのだが、時間の都合と滝谷山の東の沢を歩いてみたく、どっちつかずの合体企画となった。
雨で滝谷と近江坂の一部を周回しただけだったが、谷道は小滝が連続して、魚さえも手掴みできそうだった。秋や早春はなかなか趣のある場所ではないかと思っている。いつの日か再チャレンジを。
1970年3月 単独
当時京都に住んでいたので日帰りができそうということで丹波の山も選んだ。 三埜から入って上乙見に降りた。ちょうど残雪期で、ブナ等の落葉樹の周囲だけが融けていることで春の訪れを感じていた。帰りは和知まで歩いた。
年・月日・時不明
リーダーと打合わせをしていたのは覚えているが、本当に登ったのかどうか、はなはだ不明だ。ご丁寧にも、夕方の通過時刻と、横谷にテント記号が書いてある。
1971年11月
沢の池に行ったのは覚えているか、だれと、なんで?全然記憶にない。
1971年11月
まったく忘れていた。岩籠山という名前も忘れていた。ちゃんとコースタイムまで記録していたのだが。
思い出したのは、夕方、柿のスズナリになった麓に降りてきて、特急北越が通ったこと。
1972年3月
なんで行ったのかよくわからない。清滝から登り清滝に降りる。雪はなかった気がする。降りてきてカワラケ投げをやったのは別の機会か?
1972年9月 単独
綾部市の最高峰なので行っとかないと!当初1973年かと思っていたがそれは違うようだ。
ツエルトを買って最初の山行で、頂上に小屋があったので、その中に設営した。今のレポートを見ると、皆さん峠-尾根伝いに行っているようだが、谷ルートを取った。特に問題となるような所はなかったけど・・
1972年11月2~3日?
コースデータと裏面に冠山をスケッチした地図を無くしてしまったので地図は代替品。
特異な山容に引かれて行ってみた。林道はあったようだが(福井側は工事中?)旧道を登った。伐採の斜面をよく覚えている。そのクセ頂上はあまり覚えていない。下りは林道で徳山村に降りたが、その時にスケッチしたのだ。
徳山ダムの工事は始まっていたが、まだ村は健在だった。バス待ちをしていると子ども達が集まってきて、戸入とか門入はもっと山奥やと言っていた。
圧巻は山の黄葉だった。あんなすごい黄葉は見たことがない。息を飲むとはこういうことか!と思った。地図に狂小屋という地名があり、ちょっと気持ち悪かった。心に残る良い山行だった。(4名)
1973年7月
さすがに南アルプスはダイナミックやなあ!1日で3000峰2座はちょっと行きすぎでキツかったがサラリーマンの性なんだろう。まずまずセルフコントロールもできて、エキサイティングな山行ができた。次は荒川やね、と既に計画モード。
1974年7月30日-8月1日
たおやかな峰々、飯豊を訪れた。たおやかであり芯があると形容しておこう。コースは、川入-地蔵山-飯豊本山-烏帽子岳-北股岳-門内岳。扇の地紙から飯豊温泉に降りた。新潟回りかどうかは忘れた。最高峰大日岳はパス。カラカラ天気で地蔵山登りの水場で1時間ほどかかったが、稜線上には雪有、水有、快適な稜線歩きだった。なお天狗の庭付近で同期のY君に会った。こんなところで!
飯豊山2105-御西岳2012-天狗の庭1900前後-烏帽子岳2018-梅花皮岳2000-北股岳2015-門内岳1900-扇の地紙1900。大日岳は2128m
1976年3月
まことに北山らしいしっとりしたコースなのだが、だれと行ったか、だれの企画かまったく覚えがない。北山へ(自分企画で)もっと行っていると思っていたが、そうでもないらしい。少し勉強せねば。
1976年7〜8月
雨を突いて登って三伏峠で雨は止んだ。以後、絶好の縦走日和。Sさんが赤外線filmで写真を撮って、大学まで現像しに行って、一部もらった。その写真は今でも部屋を飾っている。
1976年12月18-19日
なんという山行や!坊村でコイの洗いを堪能し、翌日は武奈ヶ岳。先輩のNさんが、2Fから「鯉一匹!」と追加注文するのでびっくりした。洗いはもちろんだが、コイコクは絶品だった。たらふく食べて飲んで、へべれけ!
翌日の武奈ヶ岳は全く覚えていない。(3名)
1977年7月〜8月
学校の先輩のSさんと。2回目のコースなので安心感はあった。お天気もよく、悪沢岳も行けたし、赤石も3回目になった。
椹島を出た後、トラックに拾ってもらった。ダムサイトの自動販売機で梅酒入りジュースを飲んでふらふらになった。
1978年7月
9年前の白山は真っ白けだったが、今回は快晴だった。それはいいのだが、山の様子はさっぱり覚えていない。帰りは岩間温泉からだったが、岩間温泉からのバスが結構なスピードで崖っぷちを飛ばし、それが一番怖かった。
この山行から自前のカメラを買った。Canon A-1 FD30-105 Zoom
1979年7月?
小出の駅に着いてイヤな気がした。駅が水浸しで水が引いた後だった。バスが出たので梅雨も開けたと思い、銀山平まで行って登り始めた。鎖場の手前でまた豪雨。「こんな天気で鎖場は登れるかい!」と撤退。しかたがないので、善光寺参りをして梅雨もあけたらしいので御嶽山でもと登りにいった。
秋に御嶽山が噴火、同日娘が生まれたので御嶽行きはよく覚えている。登山はその山行をもって35年もの長い休止に入ったのだった。